あり得ることで失われる現実味について

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しゃばけ
しゃばけ
posted with amazlet on 07.01.23
畠中恵
新潮社
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 江戸時代を舞台に「妖怪」と「推理」という2つの要素をミックスした小説。話の運び方は上手いし、それなりに面白かったのだけれど「自分が読みたいのはこういうのじゃないなぁ」ととことん自分と「エンターテイメント小説」と呼ばれるモノとの相性の悪さを実感する。「エンターテイメント小説」というか「推理モノ」がダメなのかもしれない。そういうジャンルの小説の終盤で「謎解き」の部分が始まった途端に、読んでいるときのテンションがグッと下がる。


 「謎解き」では、主人公が「実はこれはこういう事件なんじゃないか……」と、小説のなかに散らばったパズルを組み立てて、1つの《物語》を作り始める。これは読者と小説内登場人物への二重の語りかけであり、そこで読者と登場人物は「なるほど、そういうわけだったんですね!」とその《物語》に承認を与える。ここの部分、承認されるかどうかにおいて、その《物語》の妥当性、というか「現実味を帯びていること」が問われ、大体において無事承認を受け、物語中の問題は解決されるわけだ。


 つまり「あー、そういうわけだったのか」と我々が承認を与える場合、物語が「あり得る話だ」ということも承認することとなる。個人的に、やっぱりこの「あり得る」ということが、すごくその小説が「フィクションっぽいよなー」と冷めてしまう点なのだと思う。たしかにこれは「フィクション」なのは分かってるけど、なんかすごく萎えてしまう。これは小説だけじゃなくて映画でもそうで『マルタの鷹』とか観たとき、ものすげぇ萎えた。


 なんだかよくわからない文章になってしまったけど、疲れたのでおしまい。





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