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聴いてそうなものを聴かせてどうする




めかくしジュークボックス―32人の音楽家たちへのリスニング・テスト
トニー ヘリントン Tony Herrington Hashim Bharoocha バルーチャ ハシム 飯嶋 貴子 佐々木 敦
工作舎
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 ミュジックマガジン増刊『めかくしプレイ』の元ネタになった『ザ・ワイアー』(イギリスの音楽雑誌)の連載をまとめたもの。これはミュージシャンにブラインドで音楽を聴かせ、それが何か当ててもらい、それについて語ってもらうという企画。『めかくしプレイ』が「語り」に重点が置かれているに対して、本家の『Blind Jukebox』は「言い当てる」方に重点が置かれている感じである。インタビュイーとなるミュージシャンが外してしまうとマジで悔しがり、苦しい言い訳をするのが面白い。ちなみに登場する人のなかでは、サーストン・ムーア(ソニック・ユース)の耳がすごすぎる。


 しかし正直言って、本家よりも『めかくしプレイ』の方が良い。ここで本家がパクリに劣っている要因は、聴かせる音楽が実に「そのミュージシャンに影響を与えていそうなもの」ばっかりだ、ということだろう。だからミュージシャンから出てくる言葉も、なんだか容易に想像がついてしまってつまらないのである。読み手の想像を超えていく言葉を引き出す技術にかけては『めかくしプレイ』のインタビュアー松山晋也は天才的であると思う――「灰野敬二に宇多田ヒカルを聴かせる」という荒業を仕込む、とか。ナラティヴ・アプローチの術語を使って言うならば、これはもう「語り手」の「語りえないもの」をぶつけて「語り手」の世界を揺さぶっていく手法に他ならない。


 悪口ばっかりになってしまったので、グッと来たポイントをあげておくとミュージシャンが他のミュージシャンの悪口を言っている箇所が良かった。ジャック・ブルースがレッド・ツェッペリンに、スティーヴ・アルビニがジョン・ゾーンに批判を投げかけるところとか。あ、あとロバート・ワイアットのインタビューは普通に泣けます!





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