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ゆえに猪木は正しい




集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか
仲正昌樹
日本放送出版協会
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 「日本の現代思想」についての概説本ではなく、戦後から現在までの日本の思想界を全体的/批判的に俯瞰する紛れも無い「思想史」本だった。今まで思想に関しての歴史的文脈など一切知らなかったため、非常に勉強になる。仲正がここで語る歴史には中核にマルクスがいて「勉強しなくちゃいけないかもなぁ」などと思う。海外の思想状況にも触れられているのだが、戦後のフランクフルト学派の状況のところなどは特に「うわ、俺ってヤバいかも!」と思ってしまった。たぶん、それについて知っていたならアドルノやホルクハイマーを「ベタで読むこと」が出来たかもしれない(しかし読み終えて、私がポストモダン思想ではなく、アドルノやホルクハイマーに惹かれていた理由もなんとなく分かったような気がした)。


 まぁ、歴史的文脈だけではなく現在の状況も全然つかめてないため、第8講に書かれている「現在」についても非常に勉強になる。現在の状況のつかめなさ、それ自体が細分化するポストモダン的状況を表したものと言えるのかもしれないが、このようにまとめてもらえると非常にありがたい。「状況をつかむこと」とは、とても労力がいるように思う。話題となる思想関連の本を読むことはもちろん、思想誌を毎月何冊も読まなくちゃ「いけない」だろうし、シンポジウムなどを聞きに行ったりしなきゃ「いけない」だろう。そんな風にして状況を把握できる人が今どんだけいるかはわからないけど、ほとんどいないだろうし、たぶん活発に発言を行う当事者ですら怪しい気がする。ああ、なんてポストモダンなんだろう。


 で、そういう大変複雑な状況において私はどうすればいいか考えてみるのだ。が、これはもう「私はバカになるしかないんじゃなかろうか」と思う。状況を意識しつつ、しかし状況に介入することなく(そもそもできないんだから)考え、おそらく自分にばかり向けられた言葉を書くことで、自らに見える世界を秩序立てていくことぐらいしかできないように思うのだ。だから今後も積極的に誤読を行っていきたい、とか思ったよ。「でも、やるんだよ」の精神。


 あと「あとがき」が本の内容とあまり関係なく、安倍政権やウヨク/サヨクに対する嫌悪感が書きつづらているところが面白かった。





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