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いろんな肉でハンバーグを作ってみるよ




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 本日は久しぶりに仕事が早く終わったので「料理でも作っぺが」と思ってスーパーに行きました。で、ふらふら品物見てたんですがせっかくのフードプロセッサを全く活用してなかったことを思い出して、夕飯はハンバーグに決めました(このためにフープロ買ったのだった)。せっかくなのでひき肉になっていない肉を買ってトライ。本日のお肉はタイムサービスだった牛肩肉切落しです。正直、牛肉が部位によってどんな特性をもってるのかと全然知らないのですが、値段が手ごろだった。あと肩こり酷いんですよね、ここ最近。近代以前の医学によれば「目が悪いときは目に似てるものを喰え」みたいな目には目を、歯には歯を……メソッドがあったそうなので、肩肉食えば治るかも、肩こり……と思ったんです(嘘です)。


CA330005 こちらの画像がフープロを使用して作った「焼く前のハンバーグ」です。フープロでみじん切りにしたたまねぎを炒めて、冷ましてから、フープロで混ぜ合わせた肉・たまご・牛乳・パン粉・調味料のなかにブチ混んで、さらにフープロでかき混ぜました。文明のパワー全開。写真をよく見てもらえばお分かりかもしれませんが、人力では不可能なレベルできめ細かいタネを作ることができました。ただし、粗っぽい野生味溢れるハンバーグが好きな方にはこの方法をオススメできません。っていうか私も、そっちの方が好きなので今後は混ぜ合わせ工程から人力で行っていきたい、と思います。しかし、作業時間15分で「もう焼けるぜ!」という段階にいけるという利便性は驚異的。これなら残業して帰ってきてもハンバーグをつくることができそうです!


CA330006 焼き上がりも非常に綺麗(若干、焼き目をいれすぎましたが……あとライス多すぎ)。味は、なんかとてもサッパリしてました。ヤクルトスワローズの選手で喩えるなら度会、っていう感じでした。悪くないけど、印象に薄い。スタメンをはるのは難しい……。





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