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異化された大作について




ベートーヴェン:荘厳ミサ曲
ゼーダーシュトレーム(エリザベート) ヘフゲン(マルガ) クメント(ワルデマール) タルヴェラ(マルッティ) ニュー・フィルハーモニア合唱団 クレンペラー(オットー) ベートーヴェン ピッツ(ウィルヘルム) ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
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 ベートーヴェンの書いた作品のなかで、《荘厳ミサ曲》と交響曲第9番《合唱付》は完成度の高さで言って、一二を争う関係にある。もっとも、曲の知名度は後者の方がずっと高く、前者は「後者を書くための試験的な作品」とさえみなされることがある。しかし、曲全体のまとまりからすれば、第1楽章から第3楽章まで技術の限りを尽くした純粋な器楽曲であるのに第4楽章で劇的な大団円を迎えてしまう後者の唐突さよりも、冒頭から声楽を器楽に溶け込む楽器のように扱った前者の方が上のように思われる。



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 《荘厳ミサ曲》という曲名が示すとおり、テキストには典礼文が用いられ、作品はキリスト教的な宗教性を帯びている。しかし、ベートーヴェンはテキストに従属するような音楽を書いてはいない。同じ「キリエ」でも、フォーレが《レクイエム》において「主よ」と呼びかける歌から始めるのに対して、ベートーヴェンはまず、器楽による主題の提示から始める。これがその後、合唱へと繋がれていくのだが、この提示からしてテキストと音楽の均等な関係を暗示しているようである。



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 「グローリア」のめまぐるしさはほとんど分裂症的とさえ言えるめまぐるしさもテキストから「読み上げられ、意味を伝える」という性格を奪い取ってしまう。長・短の転調、それから合間に挟まれる器楽によって、テキストは何度も中断される。そして、高い技術によって書かれたソリスト、合唱者のフーガもまた音楽をテキストから引き離す技術であり、そこで同時に歌われることによってより聴き取りにくいものとなった典礼文はもはや器楽的なものとしてしか響かない。



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 「クレド」に入ると、漸く合唱が器楽にたいしての優位性をとりもどすかのように思われる。しかし、途中でフーガが登場するとそこからまた器楽の勢いを強めていく。また、この作品において、まるで取り付かれたようにフーガが頻出するのだが、どの登場の仕方もそれまでの流れから連続して(中断はない)始まる――そこで行われる音楽の流れの強引な変更は、とても面白い。形式が統合へと向かうのではなく、むしろ離散していく、そのような展開の連続によって《荘厳ミサ曲》は統合されているように思われる。



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 器楽と声楽のせめぎあいは「サンクトゥス」には見られない。それ以降は、もはや器楽が声楽の旋律を模倣することがなければ、声楽が器楽へと従属することもない。しかし、それは調和ではなく、完全なる並列関係で音楽が進行することを意味する。特に「サンクトゥス」の後半部分である「ベネディクトゥス」においてそのような平行は顕著である……のだが、不思議なことにこの部分以降の演奏はYoutubeのどこにもない。「ベネディクトゥス」こそ、最もこの作品で美しい箇所であるというのに!


 動画で紹介している演奏はレナード・バーンスタイン/コンセルトヘボウ管。冒頭に挙げたCDはオットー・クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管のもの。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの《合唱付》を「人類の宝」と評した評論家がいたけれど(この意見には私も、彼の演奏の第3楽章についてのみ同意する)、このCDの「ベネディクトゥス」でクレンペラーは同じような業績を残しているように思う。





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