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スピリチュアル・ジャズを少しフィジカルに考える




Love Supreme (Sl)
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John Coltrane
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 id:la-danseさんが「最近、ジャズを聴き始めましたが、コルトレーンって本当にすごいんですねぇ……」とおっしゃっていたので、コルトレーンを聴きなおしている。といっても、そこまで腰を入れて聴かなくちゃいけないほど枚数は持っていない。っていうか、最近までこの『至上の愛』と『インプレッション』(エリック・ドルフィーが参加している)しか持ってなかったぐらいコルトレーンには疎い。これは高校生ぐらいのときに「『ジャイアント・ステップス』は名盤だ!」という話を聞いて、聴いてみたらあんまりピンとこなかった、というトラウマによるものである(そして『ジャイアント・ステップス』には未だに良い印象を持っていない。これは、私の中で『技術と内容は全く無関係であることを証明する音楽』のひとつである)。


 しかし、『至上の愛』ってホントに素晴らしいアルバムだ、と改めて思った。「音が洪水のように迫ってくる」という表現がピッタリな音楽には、結構数があるけれども、これはそのなかで最も少人数で演奏された「洪水」ではなかろうか。コルトレーン以上にエルヴィン・ジョーンズのドラムがすごくて「一人民族大移動」といった趣すらある(一人というには大きすぎる!)。まぁ、なんのことやら、といった感じですが……。あと、このアルバムのジャケットを見てると「ヌーの群れ」のことを考えてしまう(コルトレーンってヌーっぽくないですか?)。


 また、このアルバムからコルトレーンのスピリチュアル化が一層激しさを増した、とも言われている――『至上の愛』は、その後のスピリチュアル・ジャズの嚆矢なのだ……コルトレーンはやっぱり音楽によって神秘的なところへと辿りつこうとしてたのかもしれない……むむ……とか考えてしまう。こういう超越的なものに対して向かうアフロ・アメリカンのミュージシャンは結構多い。「土星人」サン・ラ、ネバーランドを実現したマイケル・ジャクソン、プリンスも最近はキリスト教に夢中らしい(最も彼の場合、家庭の問題が強いのかもしれない)。


 「アフロ・アメリカンのミュージシャンは何故『宇宙』や『神秘』へと志向するのであろうか」――このような問いに対して、野田努という人は「アイデンティティの危機/自らの存在の寄る辺の無さが、超越的存在への(過剰な)志向を生み出している」みたいなことを言っている。らしい。私はこの人の本を読んだことが無いので詳しいところはよくわからない。けれども、とてもインチキ臭くて良い分析であると思う。ただ、これではコルトレーンもサン・ラもマイケルもキチガイばっかりではないか!という話になってしまうので、もう少しフィジカルな面から「コルトレーンのスピリチュアル・ジャズ」についてアプローチをしてみたい――コルトレーンが音楽を演奏する中で何に触れ、そしてどのようにして神秘に目覚めたのか、何が要因だったのか。

 これについてはやはり、クスリを問題にしないわけにはいかない。この時代のジャズ・ミュージシャンの多くがそうであったように、コルトレーンもまたジャンキーであった。この人の場合、その影響で、ライヴが終わったあとにステージでそのまま寝ていたり、仕事をすっぽかしたりしたせいでマイルス・デイヴィスのバンドをクビになった、という逸話があるくらいなのでかなり筋金入りの人だったんだろう、と思う。彼が偉いのはこの後、ドラッグを頑張ってやめたところ*1。「クスリやめますか?それともバンドやめますか?」と迫ったマイルスが1974年に一時的に引退するまでクスリを辞められなかったのと比べるとずいぶん男らしい。


 で、コルトレーンの話に戻るんだけれどもクスリを辞めて頭脳をクリアにして、改めてバリバリと楽器を吹きまくりはじめたとき、なんか見ちゃったんじゃないかな、と思う――吸うなり打つなりしてから吹くのではなく、平常心から吹き始めなかったら体験できないようなそういう世界を……なんて思うのは、私にも少しそういう体験に覚えがあるからだ。


 そのような感覚を個人的には「音楽と自分の体の境界線がとても曖昧になる感じ(ミメーシス!)」と呼んでいる。こういうのは、あくまで比喩なので「それってどんな感じなの?」と追求されても「とにかくそんな感じだよ!」と返すしかないのだが、とにかく楽器を演奏していてそういう普段絶対に味わうことができない感覚を味わうことがある。自分の音以外は何も聴こえないスタジオや演奏会の本番のステージといった、極度に音楽へと集中している状況(指をどんな風に動かすか、ここでどんな音程を取るか、そういう雑念が全部消え去ったとき)、歪んだ時間感覚とともに「それ」はやってくる。酔っ払ってるときとも違って、頭は冷静なのだけれど気が付くともう曲の終盤で「あ、あと13小節で曲も終わりか……はやいなぁ……ノド乾いたなぁ…ビール飲みたいなぁ……」とか考えている。そして妙に気持ち良い。


 推測だけれど、こういう体験ができるのは、私がやっている楽器がファゴットという「息を使う楽器」、つまり指などの身体の末端だけを使うのではなく、もっと根本的なところから体を使っていく楽器だから、というのもありそうだ――呼吸/呼吸法と精神の強い関連は、特に東洋における身体的な技法(禅、太極拳、ヨーガ)においても示されているところである。


 繰り返すようだが、コルトレーンもこんな体験をしてたんじゃないのかなぁ、と私は思う。もちろん、私はプロの演奏家でもジャズ・ミュージシャンでもない(もしかしたらプロはもっとすごい体験を味わってるのかもしれない……)し、脳科学者でもヨガの先生でもない。第一に私はコルトレーンじゃないから、あくまで推測に過ぎない。しかし(これも繰り返しになってしまうけれど)以上で私が語った体験は、比喩によってでしか伝えられないものである。こういう身体的な感覚を言葉にするのは難しい。


 ただ、比喩でしか伝えられないものだからこそ、それを「神」だとか「神秘」だとか「スピリチュアル」だと他の人が呼んでいてもおかしくはない話だ、とも思う。コルトレーンが「至上の愛」と呼び、私が「音楽と自分の体の境界線がとても曖昧になる感じ」と呼んでいるものが、もしかしたら同じかもしれないことだってあるかもしれないでしょう?(証明できないんだけれども)――しかし、それを何と呼ぶかは、個々人のセンスの問題である。「神」が出てくる時点でコルトレーンのセンスは少し誇大なものとは言えるような気がする。ドルドルドルドル……と『至上の愛』の最後で鳴るティンパニの吹き出しそうになる仰々しさなんかからもそれは伝わる。



Kulu Se Mama
Kulu Se Mama
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John Coltrane
Polygram Records (2000/06/06)
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 このアルバムなんか、ホントにシラフなのかなぁ……と疑いたくなるほどのアフリ感が全開で最高です(最後に入ってるバラードがまたすごく良いんだ……)。追記;このエントリを書きながら、コルトレーンの資料サイトとか見直してたんだけど「オルンスタイン音楽学校」に通ってたっていう記述を見つけました。これってあの(って言っても誰も知らないと思うけど……)レオ・オルンスタインの立ち上げた私塾でしょうか……。




*1こちらのサイトによれば、1957年にドラッグから抜け出したらしい





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