スキップしてメイン コンテンツに移動

高橋悠治『高橋悠治コレクション1970年代』




高橋悠治|コレクション1970年代 (平凡社ライブラリー (506))
高橋 悠治
平凡社 (2004/07)
売り上げランキング: 181607



 作曲家であり、ピアニストである高橋悠治の著作集を読む。彼の作品について私はそのほんのわずかを録音で触れたことがあるだけだし、ピアノの演奏はほとんど聴いたことがない。音楽家である人物の作品に接するとき、今回のように「まず文章から入ってみる」という態度はあまり好ましいものではない、と個人的には思うのだが、大変面白く読んだ。


 高橋の書く文章は硬質で、とても論理的である。そして常に政治的だ。とくに3部に分かれた全体の最後にあたる「生きるための歌」では、1970年代に東南アジアで展開された反体制運動のなかで歌われていた歌、あるいは貧しい人々の過酷な生活のなかで歌われていた労働歌を詳細にとりあげており、そこから高橋はいかにして生と密接に絡んだ音楽を書けば良いのか、という方法論を導こうとする。さらには現代音楽と社会との関係性の希薄に対する憤り/怒りが何度も反復される。この「熱さ」は単に時代のせいというわけではあるまい。この「熱さ」は、日本の現代音楽界における世代の問題としても考えられるように思うのだ。



現在、最先端にいるのは40代の作曲家たちだ。(中略)そこで成功作とみなされるものは、ヨーロッパの資源を平面的装飾的に精錬した小手先の芸だ。メシアンをすこし、ドビュッシーとアルバン・ベルク、ここにクセナキス、そこにベリオと、調味料のようにつかいわけ、「孤独な音たちの呼びかわす音空間」や「生の緊張にみちた間」などの<日本的>特徴をわすれず、また根源・時間・空間・宇宙・創造性といった無内容なことばでかざりたてた自作解説をともなう。(228-229)



 この文章で批判の矛先を向けられているのは、おそらく武満徹だったろう。武満(1930年生まれ)と高橋(1938年生まれ)の生年には8年ほどしか差がないけれども、高橋が書いたこの文章の鋭さは、同時に彼らの世代間の溝をも深く刻んでいるように思える。高橋の先行世代にとっては、西洋で既に評価された音楽の要素を取り入れれば「音楽ができた」。たとえば、武満がメシアンを真似たように、一柳慧がジョン・ケージを吸収したように。でも、高橋はそのような「めぐまれた環境」にはいなかった。彼は既に試行錯誤し、自ら作り出さなければ評価を受けることができない、という状況にいたのだ。本全体を貫く、強い切実さはそのような状況からも生まれてきたものではなかっただろうか。


 徹底したロマンティシズムの排除にも、アンチ先行世代的な態度があらわれているのかもしれない。小林秀雄のモーツァルト論に対する痛烈な批判(要約するならば、小林は勝手にモーツァルトの音楽を私有化して自分語りをおこなっているに過ぎない、というような内容だと思う。これは私も強く感じていたことだった)や、ベートーヴェンの亡霊が裁判にかけられるという戯曲的な文章は、あらゆる音楽が近代的かつロマン主義的な芸術家の姿(作品によって感情を語る、というような)へと回収され、それが一種の道徳にもなっている状況への強い嫌悪感がヒシヒシと伝わってくる。


 そこでの高橋のメッセージには「純音楽」(音楽のために音楽がされる、自己目的的な音楽)はもはやありえないものとなっている、という強いメッセージがこめられているようにも思う。これを「状況にコミットしない音楽は単なるブルジョアの嗜好品に過ぎない」という実に社会派的なものと読み替えても良いかもしれない。ただし、このような反ロマン派的態度さえも一種のロマン派的態度と読めるのはたしかである。反抗する状況がどこにあるのかすら確かではない時代からすれば、まだ1970年代に高橋がいた状況もめぐまれたものと思えてくる。



D


 (師であり、友人でもあったギリシャ出身の作曲家、ヤニス・クセナキスの作品を演奏する高橋悠治)この本の中では、第二次世界大戦中、反ファシズム運動に参加したことで逮捕され、死刑宣告を受けたクセナキス(そのときに受けた銃弾で彼は片目を失明している)がその後、フィリピンで圧政を強いていた政府が開催した音楽イベントにのこのこと出かけ「自分が受け入れられた」と満足そうに語った、ということに対しても批判がおこなわれている。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か