シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲について

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シベリウス&シェーンベルク:ヴァイオリン協奏曲
ハーン(ヒラリー) シェーンベルク シベリウス サロネン(エサ=ペッカ) スウェーデン放送交響楽団
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 ヒラリー・ハーンが演奏するシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲を繰り返し聴いていて、私もこの作品についての文章をひとつしたためたくなった。この文章が、この作品に初めて触れた人、あるいはシェーンベルクの作品に初めて触れた人のためになるものになれば、と思いつつ解説的なものを書いてみることにする――まず、この素晴らしいヴァイオリン協奏曲を書いたアルノルト・シェーンベルクという人の経歴について触れておこう。


 紹介をごく簡単なものにとどめておくならば、1874年にウィーンに生まれ、1951年にアメリカで没したユダヤ系オーストリア人の作曲家……ということになる。加えて、彼の業績を紹介すると「無調音楽によって調性の破壊をおこない」、「12音音楽という作曲技法を確立した」という二点があげられる。作風の変遷について言えば、後期ロマン派時代(代表作は《浄められた夜》、《グレの歌》、室内交響曲第1番)→無調時代(代表作は《月に憑かれたピエロ》、《期待》)→12音音楽時代という道を辿る。この道は、19世紀末から20世紀前半の西洋芸術音楽の歴史とほとんど同一化されてもよい「進化の歴史」でもある。


 12音音楽という技法は、ウィキペディアにも簡潔にまとめられている。



重複しない12音を平等に使って並べた音列を、半音ずつ変えていって12個の基本音列を得る。次にその反行形(音程関係を上下逆にしたもの)を作り同様に 12個の音列を得る。更にそれぞれを逆から読んだ逆行を作り、基本音列の逆行形から12個の音列を、そして反行形の逆行形から12個の音列を得ることで計 48個の音列を作り、それを基にメロディーや伴奏を作るのが12音音楽である。一つの音楽に使われる基本となる音列は一つであり、別の音列が混ざることは原則としてない。したがって、この12音音楽は基本となる音列が、調性に代わるものであり、またテーマとなる。そして音列で作っている限り、音楽としての統一性を自然と得られる仕組みとなっている。(Wikipedia-アルノルト・シェーンベルクより



 この技法を「発明」したことで、シェーンベルクは20世紀音楽の創始者としても考えられている。しかし、シェーンベルクがこのような12音技法のルールにこだわりつづけていたか、といえばそうではない。そのように厳格な作曲技法を守り続けたのは、むしろシェーンベルクの弟子であったアントン・ヴェーベルンだった。


 シェーンベルクの場合、「完全なる12音技法」で書かれた作品はごく一時期にとどまり、実のところ「12音音楽時代」においても無調の作品を書いているし、調性を保持した作品も書いている。また、12音技法が用いられていた場合でも、そのルールが守られていないこともある。よって、先に示した「シェーンベルクの作風の変遷」などというものは、実は全くあてにならないものである。


 ヴァイオリン協奏曲が完成したのは1936年。これは「変遷」の図式にあてはめれば12音音楽時代に属する。しかし、この作品においても12音技法のルールは完全に守られているわけではない。とくに第3楽章のアレグロなどは、音列の操作が明確に現れる部分はごくわずかで、ほとんど無調時代の「アナーキーな音響の設計」という段階まで回帰しているようにも聴こえる。また、後期ロマン派時代における作品の物語性を感じてしまう。


 このあたりをどう捉えるかが作品をどう評価するかにもつながってくるのだろう。12音技法を確立し、これを「今後100年のドイツ音楽の優位が保証される」ものと謳った後にも関わらず、12音技法以前の状態で音楽を書くのは一種の反動だ、ということもできる。しかし逆にこれに、技法上の問題にとらわれることなく書かれた自由な作品という好意的な評価を与えることも可能だろう。このヴァイオリン協奏曲にはシェーンベルクが用いた音楽技法のすべてが詰まっているといっても過言ではない。20世紀の新しい音楽を切り開いた作曲家が出した「総括」として聴かれても良いだろう(作品が完成したとき、シェーンベルクは62歳。これはもう晩年の作品だ)。


 ここで、ある批評家によって出された評価を引用しておこう。



……《ヴァイオリン協奏曲》の行進曲の終楽章とには、過剰なまでに明白な表現がある。誰もその力から逃れることはできないであろう。その表現の力は私的な主体を背後へと押しやるのである。しかしながら、こうした力でさえ、あの裂け目を閉じることはできない。そもそもそれはいかにして成しえようか。したがて、これらは見事な不成功の作品なのである。作曲家が作品において拒否されるのではなく、歴史がその作品を拒否している。


 テオドール・アドルノによるこの文章は「反動」か「自由」か、という問題を見事に捉えたものに思える*1。アドルノは(ヴァイオリン協奏曲を含む)シェーンベルクの後期作品を、いかにして「新しい音楽語法によって、古典的音楽作品が持つ《物語性》や《力動性》を構成することができるのか」という問題に取り組んだものとしている。そして、ヴァイオリン協奏曲はそういったダイナミックな作品の構成に成功したものだ、とアドルノは評価した。そこにはまた、ロマン派的な作曲家の主張や訴えという主体的なものの提示ではない、新しい作曲家の《声》が存在する。


 しかし、そのダイナミックな構成のためにシェーンベルクは、12音技法のルールを遵守することを諦めなければならなかった。歴史は不可逆なものであり、一旦「12音音楽」という新しい音楽へと進んでしまえば、それは後戻りさせることができない。だからこそ、12音技法の厳格さに従わないシェーンベルクは歴史によって否定されてしまう(『反動』の烙印を押されてしまう)。


 このようなアドルノの評価には、前衛であることの難しさや、近代の忌まわしい宿命のようなものも含まれている。ただ、これが現代においても有効な評価であるかはわからない。なぜなら作品の評価に「前衛であるか」あるいは「歴史上の位置づけ」といった尺度を持ち出す行為はすでに意味を失ったものだからだ。逆に、そのような尺度が意味を失った現在になってやっと、シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲に込められた《声》は真っ当に聴き入れられるようになったのかもしれない。






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