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ボリス・ベレゾフスキー@パルテノン多摩



 1990年のチャイコフスキー・コンクール優勝者であるピアニスト、ボリス・ベレゾフスキーの演奏会に行ってきた。パルテノン多摩開館20周年記念事業だそうで、チケットが2000円。早めにチケットを確保したら、ピアニストの指がちょうど目の高さで見れるような良い席でちょっと得した気分になった。今夜の曲目は以下。



ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 Op.57《熱情》


メトネル:《おとぎ話》より


シューマン:《ダヴィット同盟舞曲集》Op.6



 この演奏会のチケットを取るまでベレゾフスキーというピアニストについて「名前は聞いたことがあるけれど、どんな演奏家か知らないなぁ」という感じだったのだが、先日家の「あんまり聴いていないボックスCDコーナー」(たくさんある)を探っていたところ、彼が参加した録音が結構あったので事前に聴いてみた。Youtubeにも彼の演奏がアップされている。



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 このプロコフィエフを聴いてもらえば少しは伝わるかもしれないけれど、私が彼のピアノを聴いて第一に思ったのは「ずいぶん丁寧にピアノを弾く人だなぁ」ということである。言い方を変えるなら、彼のピアノはすごくマジメなのだ。どちらかといえば落ち着いたテンポを選び、音色は綺麗、勢いよりも正確さを重視する――ちょっとベタベタするぐらい楽譜をマジメに読んでいる、という感じがする。これは私が思う「ロシアのピアニスト像」とは上手く結びつかない演奏だった。


 「正当な」ロシア・ピアニズムと言えば、フォルテはフォルテッシモで、アレグロはモルト・アレグロで、アンダンテはアンダンテ・グランツィオーソで……というような「過剰さ」の上に成り立っているように思っていた。リヒテルなんかがその代表格だったし、ギレリスも、もっと古いところで言えばラフマニノフもそうだったかもしれない。


 こういう過剰については、ピアニストに限った話ではなく、ヴァイオリンのオイストラフやコーガン、あるいはカガンといった演奏家もピアニストに負けないぐらい過剰な演奏をしていた。要するに「ロシアの音楽家は濃ゆい」のである。しかし、ベレゾフスキーのピアノにはそのような濃さは微塵もない。ちょっと退屈するんじゃないか、と心配になるぐらい素直な音楽を展開している。


 プログラムの一曲目であるベートーヴェンの《熱情》が始まってからも、そういった印象は拭えなかった。冒頭から正確で安定したタッチ、ルバートも控えめなテンポの運び。ここから、ベレゾフスキーが高度なテクニックを持っていることは、充分に感じることができた。しかし、やはりそれだけ聴かされても聴き手としては退屈してしまう(そんな退屈なベートーヴェンを聴くぐらいなら家でアシュケナージでも聴いていたほうがマシだ)。ただ、不思議と私は退屈しなかった。むしろ逆に彼のピアノにグイグイ引っ張られていった。


 それは彼のピアノの「思慮深さ」に惹かれたのだろうと思う。楽譜への素直さだけではなく、彼の音楽には楽譜を丹念に読みつくしたところから生まれた解釈がある――嵐のような第1楽章から一転した、第2楽章の穏やかな主題の変奏において、彼は主題をわざとぎこちない感じで演奏した。それまで、流麗に難しいパッセージを引き続けていたにも関わらず、である。こんな音楽の作り方は、リヒテルやギレリスならしなかったろう。彼らの演奏には聴衆をねじ伏せるような圧倒的な雰囲気があった。それに対して、ベレゾフスキーには徐々に聴き手の惹きつけていく自然な力があるように思う。


 ふと思ったのは彼のピアノが、リヒテルやギレリスのような「正統派」ロシア・ピアニズムに対しての批評になっているのではないか、ということだ。おそらく、ベレゾフスキーには、リヒテルやギレリスのような演奏ができたはずだ(彼のような体格を充分に駆使したら、先人よりももっと凄みのある演奏ができたかもしれない)。しかし、彼はその道を選ばず、全く逆のベクトルへと向かう自然な音楽に向かって行っている。この真逆の歩みによって、リヒテルやギレリスは相対化され、同時にベレゾフスキーは彼らとは別なロシア・ピアニズムを作り上げることに成功しているのではないか、とも思う。


 それにしても柔軟なピアニストだ。《熱情》の第2楽章で童心に帰らされるような牧歌的な音楽を見せるかと思えば、第3楽章では第1楽章よりも激しい嵐を持ってくる(しかし、一切汚い音は出さない)。こういう上手さが発揮されていたのは、シューマンの曲だった。《ダヴィッド同盟舞曲集》、この全18曲の短い舞曲の連なり(ここでは、それぞれ性格も違えば、一曲のなかで極端に異なる性質の音楽が繰り広げられることもある)を、見事に弾き分けてしまう。


 シューマンの作品における統一感の無さ、筋の通らなさ。この性質を力技によって強引に一つの音楽にしてしまう、という方法(アルゲリッチのシューマンなどはその代表例だろう)を取らず、シューマンを聴かせるというのはかなり驚異的だ。ベレゾフスキーの素直で美しいピアノから響いてくるシューマンの「狂い」は、鬼気迫る狂気らしい狂気よりもよっぽど恐ろしい。


 近年、徐々に演奏の機会が増えているメトネルの作品については、私は結構ついていけない部分があった。充実した《熱情》の後に「(ショパンの右手+シューマンの左手)×ラフマニノフの超絶技巧」みたいな曲を聴かされるのは、つらい、というか勿体無い……。





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