結局、マナーなんて俺ルールの後ろ盾に過ぎない

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色んな楽しみ方があっていいし、誰だって最初は未体験ゾーンな訳ですが、私がこれまで見てきた「クラシック聴きに行ったけれどマナーが厳しすぎる」と愚痴ってる人たちの最大の問題は、「俺ルールを押し通す(家の外でも自分の世界に入ったまま)」人が多いように見受けられました。



 先日書いたクラシックの演奏会におけるマナーについてのエントリに以上のようなコメントをいただいている。これを読んで私は「でも、演奏会では静かにしろ!」というその要求もひとつの「俺ルールを押し通すこと」だよな、と思った。結局のところ、マナーなどとは誰かが俺ルールを押し通す際に、その行為に正当性を与える枠組に過ぎないのではないか、と思う。


 もしそのような枠組がない状況においては「騒音なんか気にしない。好き勝手おしゃべりしたいし、パラパラと音を立てながらパンフレットをめくり音楽を聴きたい」という俺ルールと、「音楽は厳粛に聴きたい。騒音なんか聴きたくない」という俺ルールはどちらも並列に置かれてしまい、どちらも正当化されてしまう。あるいはどちらも正当化されない。しかし、実際には後者の俺ルールが優位性をもったものとして扱われる。後者にはマナーという後ろ盾がある。「どうしてマナーを守らなければいけないのか」。こういった問いはあまり意味を持たない。「守らなければいけないマナーがあるから、マナーを守らなければいけないのだ」という同語反復的な返答によって、問いは解消されてしまう。


 しかし、そこで自分の俺ルールが正当化されたといっても「俺は正しい!演奏会は厳粛に音楽が聴かれるべきなのだ!」とふんぞりかえるのはあまり好ましいものではないように思われる。むしろ、そのような俺ルールは、マナーに寄りかかることによってでしか正当化することができない、脆弱なルールであることに自覚的である必要があるような気がする。





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