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堤幸彦監督作品『20世紀少年』




映画「20世紀少年」オリジナル・サウンドトラック
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 浦沢直樹原作の『20世紀少年』を観た。初日のレイトショーで会場はほぼ満席。マンガ原作映画の動員力を改めて思い知らされるような感じがして「そりゃハリウッドもマンガばっかりネタにして映画作らせるよなぁ」と思った。


 映画は、結構ちゃんと作ってあるけれど(原作に沿うような形で)、悪く言ってしまうとちょっと散漫かな、という印象。登場人物が多いせいか、主人公の描かれ方みたいなものも希薄。「小学校のときの友達が死んだぐらいで、そんな風になるかぁ?(お前、むちゃくちゃ疎遠だったじゃん!)」みたいなところでひっかかってしまったりする。あと、ラーメンの湯気をCGで過剰に映しているところなどにも冷めてしまった。それ以上に文句をつけたいのは、映画のなかで流れる音楽の音量がものすごく普通な音量だった、という点だけれども。



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 劇中何度か流れるT-REXの「20th Century Boy」。これは肌が震えるぐらいの爆音で流してほしかったなぁ……。何のために劇場に行っているのかよくわからなくなる。常盤貴子っていやらしい体型しているなぁ……とか観ていて良かった点も多々あったけど、なんかなぁ……。「色んな役者がものすごく豪華に出ている」とか「マンガのキャラにそっくりな俳優がたくさん出てくる」とか、そんな映画見せられても「うわー、よくできてるなぁ」ってしか思えないじゃん。唐沢寿明の子ども時代を演じている子役が唐沢そっくり!とか「そんだけー……」みたいな。観終わってから「俺、続編観るのかなぁ」ってしばらく考え込んでしまったよ(次回も『よくできてる!』で終わったらどうしよう的な感じで)。


 そもそも「この原作マンガが連載じゃなくて、映画という一本の線でつながったときに面白くなるのか」という物語的な強度についても考えてしまう。いろんなところで言われている通り、原作はかなりグダグダな感じで終わっている。でも、面白かった、と私は思う。(休載が結構あったけど)一時期『ビッグコミックスピリッツ』は毎週かかさず、まず『20世紀少年』から読むぐらいだった。


 ただ、その面白さって「うわ!次の展開どうなるの?」って読み手をドキドキさせるような「引き」の上手さがすごかっただけで、それって物語の面白さとはまったく別のものなんじゃなかろーか。結局、原作も「うわ!次の展開どうなるの?」って思わせる「引き」を続けている間はめちゃくちゃ面白かったけど、その後の「解決」となると途端に面白くなくなっていた感じがした。「引き」だけは面白い。それはそれでとても良い。でも、それは映画にも還元可能な面白さなのだろうか。


 前半の「すげぇ、カットアップみたい」ってぐらいにザクザクに切ったカット割りは結構見ものかも。





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