インテリぶってるので続けるよ

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論理的/非論理的 - 「石版!」


ぶってぶって姫、降臨www - 消毒しましょ!


 「ぶってぶって姫」ってなんなのか、ホンモノのインテリではなく(やっぱりホンモノとなると新聞を読んだりしなくちゃいけないんだろうか?)インテリぶっているだけなのでよく分からないのだが、もう少しエントリを続けてみる。


 こちらは、わざわざまたトラバエントリを書いてくださったid:AntiSepticさんへの返信でありながら(『戯れに弄くったら』というなら、別にトラックバックを送る必要あったのかな……)、アドルノについての文章になると思うので「なんだよ、暇人同士が言い合ってるだけかよ」と思わず、第3者の方も興味があったら読むと良いと思います。インテリぶってるので微妙に上から目線です。


 ちなみに先方からは「返信しなくて結構です」と言われてるんだけど、まぁ、良いや。読まれなくても、書く。彼女にしか見られないけど、むちゃくちゃ筋トレする、みたいな、そういう何かだ。


 まず、「言語的/非言語的」また「論理的/非論理的」という言葉の使用法において、私とAntiSepticさんでは根本的に意味を異としている点から始めてみたい。



オレは「非言語的コミュニケーション」は「非論理的」であると言っているかのように見えたから突っ込んだんだけど、分かってる!?



 と突っ込んだらしいのだけれど、私はそのとおり「非言語的コミュニケーション」は「非論理的」である、と言っているのだから突っ込みになっていない。ここで話が噛み合っていないことが露呈しているように思う。「言語的コミュニケーション」という言葉を「言語によるコミュニケーション」、逆に「非言語的コミュニケーション」を「言葉によらないコミュニケーション」というような意味で相手は使っているように思われる(たぶん)。その用法は決して間違いではない。むしろ正解だろう。しかし、それはたくさんあるうちのひとつの正しい使用法に過ぎない。


 一方で私はそのような「言語的/非言語的」という言葉の使用にそのような意図を含めていない。では、どういう意味で使用しているかと言えば「言語のような/言語のようなものではないような」という使い方だ、という風になる。


 この二つの意味の違いがどういう風に影響が出てくるか、というとコミュニケーションの分類に関わってくる、と思う。例えば、前者の意味(的=“による”)からすれば、モールス信号は非言語的コミュニケーションだ、と言える。そこには、論理があり、規則がある。よって「非言語的コミュニケーション≒非論理的コミュニケーション」というのは間違いだ、となる。


 しかし、後者(的=“のような”)、つまり私からすればそうではない。モールス信号は、言語のような規則性を持つから言語的コミュニケーションだと言える。逆に、非言語的コミュニケーションは、言語のようなものではないので、規則性や論理性を持たない。だからこそ「非言語的コミュニケーションは非論理的だ」という物言いが通る。


 ここまで大丈夫だろうか?みんなついてきてる?インテリぶってる人が、ものすごくインテリぶってるだけだけどな。先方が全然、暗喩的な物言いが嫌いみたいなので(偶然他のエントリを読んだら『恋愛のシステムなんか、世の中のどこにあるんだ!』と叫んでて『あるじゃん!システム!!』と思ったよ)、ものすごく噛み砕いて説明しています。これも本当のインテリになるための功徳なのかな……。


 で、具体的にどういうものを、非言語的コミュニケーションとして考えているか、というと先のエントリで書いたミメーシスであったり、音楽であったり、そういうものを考えている(正確に言えば、私はアドルノを読みながら、そういう風に考えた)。



 「非言語的コミュニケーションを言語的に《理解する》ことは不可能」なら、音楽理論や作曲法は何のためにあるのだ? スポーツの運動理論は!?



 ここで第2の引用。これはすごく言い問いかけであると思う。ここまで熱心についてきてくださった読者の方には「音楽が非言語的(非論理的)?」と思われた方がいたかもしれない。たしかに、音楽には理論があり、作曲法があって、言語的に思われるかもしれない。しかし、音楽の「意味」、音楽が伝えてることを考えるとそうではない。


 例えば、バッハやベートーヴェンなどを聴いたとする。言語的/論理的な観点からすれば、そこには無数の言語的な意味が見出せる(これは冒頭の主題の反行形で……ここは第2主題の変奏で……)。しかし、音楽は何もそれだけを伝えているわけではない。というよりも、むしろ、そんなことを伝えるために作曲家は作品を書いていたわけではないし、聴き手の方からしてもそんな風に意味を汲み取っているわけではないだろう。


 バッハやベートーヴェンを聴いたら、感動することがある。その感動は、理論とはまったく関係ないところで伝わっている。それこそが本来音楽が伝えている意味なのだ、と私は思う。「こういう和音のとき、人は悲しい気持ちになる」とか「こういう展開を使うと人はびっくりする」とか、ある程度理論と結び付けて分析することは可能だし、バークリー・メソッドでもそんなことをやっている。


 しかし、「なんでこういう和音のとき、人は悲しい気持ちになるのか」というところまで突き詰めるなら、そこまで理論は立ち入って行けないのだ(これが理論/論理の限界である)。アドルノはこんな風に言っている――理論によって描かれるものは最終的に「音楽の廃墟」でしかない、と(カッコ良い……アドルノ最高)。



シューベルトの音楽を前に、涙はこころに相談もなく、目に溢れ出る。(中略)わたしたちは、訳もわからないままに泣く。しかし、わたしたちが泣くのは、わたしたち自身がこの音楽の約束するようなものになりえていないからであり、この音楽がひたすらそのようなものであることによって、わたしたちもいつかそれにあやかれることを請け合ってくれている、名づけようもない幸福のためである。わたしたちはこの音楽を解読することができない。しかし、涙にかきくれたくもり目の前に、それは究極の和解の符丁をつきつけているのである。


 唐突に挿入したのは、アドルノが書いた音楽批評のなかで私がもっとも好きなもののひとつであるシューベルト論からの一節。「シューベルトを理論的に分析することができない。でも、訳もわからないままに泣いてしまう。その涙こそが究極の理解なのだ」という名文。未だにこれを読むと泣くね*1


 だから、非言語的に意味を伝えるものは、非言語的に理解されるしかない。というか、音楽の意味は常に理解されている――その意味において、ミメーシスとは日常的に行われている行為とさえ言えるだろう。


 ここでちょっと先の自分のエントリで書き漏らしておいたことを付記しておくと、あの映画の中で「非言語的コミュニケーション」が目立って登場するのは、まさに、この映画がが非言語的に理解されるべきところを示しているのではないか、と思ったのだった。意図があるんだかないんだか分からないところに、赤ん坊とのコミュニケーションのシーンが挟まってきたりするし。



ぬあーにが「ミメーシス」だ!! そんなの手っ取り早く実践して見せただけのことじゃんかwwww 実際、手も汚れず熱くもなく便利だったんなら、口で説明してないだけで、ちゃんと「論理という過程」「は踏まれて」るじゃんかwwww もしも「論理という過程を飛び越えて」いたなら、宗介の意図するところは伝わらない筈じゃねえかwwww


 第3の引用。宗介とポニョが一緒にラーメンを食べているところで感動的なのは、宗介にはなんら意図がなく、一緒にラーメンを食べようとするだけでふたりに意味の交流が生まれていくところなんだけれど、映画を観ていない人に何を言っても仕方が無い……。逆に宗介が「○○は××だから」とポニョに説明する場面では、全然反応がない、という点でも結構示唆的な感じがする*2




*1:ところで、さっきこれが収録されている『楽興の時』という本を探したんだけれど、家のどこにもない!!誰に貸したんだっけ……


*2:書き終えてから思ったけど、これパフォーマティブ/コンスタティブっていう区分の方が適切だったかもね……。そしたらもっと違う話になっちゃうけれど





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