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ダニエル・ハーディングのマーラー(?)




マーラー:交響曲第10番
ハーディング(ダニエル)
ユニバーサル ミュージック クラシック (2008-02-13)
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 ダニエル・ハーディングがウィーン・フィルを振った録音を聴く。曲はマーラーの交響曲第10番。これが18歳で指揮者デビューをし、29歳でウィーン・フィルにデビュー*1という華々しい彼の経歴において「ひとつのマイルストーンになるのではないのだろうか」というほど素晴らしいものだった。


 彼の指揮はいつも素晴らしく新鮮で、瑞々しい。それは他者からのセルフイメージを参照しながら(言い換えるなら『観客は、自分にこういう演奏を求めているのだろう』という予測をしながら)、戦略的にそういう演奏を行っているようなしたたかさを感じるほどである――その狙いは常に大正解だ。おそらく何年か、何十年か経てば新たなダニエル・ハーディング像が形成されてくるはずだ。「若き俊英」から「若き巨匠」と呼ばれるようになったときの彼の演奏が今から楽しみである。彼の音楽の変化にリアルタイムで触れることができるのは、この上なく幸せなことだ。


 ちなみにこれは彼が振ったマーラーの初録音でもあるのだが、最初から交響曲第10番というところがハーディングのすごさだと思う。マーラーの第10番から入ってくるなんて、初球からナックルみたいなものでちょっと前代未聞じゃないだろうか。マーラーの遺稿をもとにイギリスの音楽学者、デリック・クックが完成させたというこの作品は、言ってしまえば「マーラーの作品ではない」のだから。


 さらに言うとこれはクックの作品でもない……という音楽美学的には極めて微妙なものである(専門外の領域なので結構適当なことを言っているが、こういった補筆が入った作品は近代的な芸術家論からすれば少し異物のように扱われている、と思う)。


 しかし、クックの仕事自体は、ものすごく興味深いものだ。この作品は誰が聴いても「これはマーラーの作品だ!」という風に仕上げられているだろう。だが、現実には「マーラーの交響曲第10番」という作品は存在していない。これによって作品に触れた聴取者は「これはマーラーではないが、マーラーの作品である」という宙吊り状態におかれてしまう。


 クックがそういったポストモダンじみた問いの提示を狙っていたかどうかは知らないが、こういう風に考えてみるとこれはもう少し「問題視」されても良い作品な気もしてくる。「この作品は、誰のものなのか?」。《答えのない質問》のようだけれども、これを問うことによって作品の論じ方/評価の仕方は随分変わってくる。もしかしたらベリオの《シンフォニア》よりも大きな問題として扱えるかもしれない。


 個人的な印象を言ってしまうと「第9番を書いたあとに、これはないんじゃないかなぁ」という思いもある。クックによって仕上げられたこの第10番はちょっと後期のマーラーにしては音楽的な整理がされ過ぎているような気がするのだ。まるで「第4番の軽い筆致で、第6番のスケールの作品を書いた」みたいな趣がある。そこには第9番で聴くことのできる絶妙な狂おしさが存在しない。そこまで精巧に模写できたら、クックも単なる補筆者ではなく「もうひとりのマーラー」みたいに扱われたかもしれない。


 それにしてもウィーン・フィルの音が素晴らしいこと!近年稀にみるほどの響きがこの録音には収録されている。とくに弦楽器が素晴らしい音色を聴かせてくれるのが嬉しい。演奏のタイプはまるで違っているけれども、カール・ベームがこのオケを振っていたときのような煌びやかな音色には思わずうっとりとしてしまった。ポルタメントの「ギリギリ不健康な感じにならない感じ」加減が最高だ。




*1:今回取り上げた作品は、初めてウィーン・フィルを振ったときにも取り上げられている





コメント

  1. 視聴したけれどハーディングの大太鼓カットはやっぱり許せないなぁ。
    あと文章が優れているところに悪いけれど、1楽章とそれ以外で分けて考えるべきだと思います。

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  2. 私、実はクック版を聴くのはこれが初めてなんですよね。元からブルックナーとかの版の問題にも気を使わないタイプ(というか、普通に気がつかない)なので、それ以前に聴いていても気にしていなかったと思います。
    でもこの演奏良いですよ。「やっぱり、WPO良いなぁ……」って思わせてくれる。「1楽章とそれ以外」については、おっしゃるとおりです。

    返信削除

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