スキップしてメイン コンテンツに移動

『アメリカの黒人演説集』(荒このみ編訳)






 バラク・オバマが次期アメリカ合衆国大統領に選出されるとほぼ同時、素晴らしいタイミングで出版された岩波文庫の新刊『アメリカの黒人演説集』を読み終える。これは大変興味深く読めた。ここには19世紀前半の黒人反奴隷制論者のものから、最新のものではバラク・オバマによるものまで2世紀弱に渡って、様々な内容の演説が収録されている。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのとても有名な演説(「私には夢がある」)や、ノーベル文学賞受賞者であるトニ・モリスンのものなど目を引くものが多くあるが、やはりマルコムXによる演説に痺れてしまう。「投票権か弾丸か(The Ballot or The Bullet)」、暗殺される1年あまり前に行われたこの演説の模様は、Youtubeですべて聞くことができる。マルコムXの雄弁で、攻撃的で、澱みない言葉は、素晴らしく音楽的である。



D



即刻、事を起こさないと、投票権か弾丸か、どちらかを使わねばならなくなる。1964年の今は、投票権か弾丸か、どちらかなのだ。時間がなくなる恐れなんてもんじゃない。とっくに時間切れになっている。



 この本を読んでいて他に面白かったのは、時代を辿って読み進めていくと、人種差別反対を主張する根拠となっているものにも変化があらわれる、ということである。


 例えば、この本の中で最も古い演説、デヴィッド・ウォーカーによる「奴隷制度のもとのわれわれの悲惨な状態」(1829年)では、白人による黒人のひどい扱いを不当だ、と示すために旧約聖書がひかれる(「エジプトで支配されていたイスラエルの民のほうが、白人支配下のわれわれよりもましだったことをさらに証明しよう」)。アメリカの白人の多くが、キリスト教徒であるにも関わらず、なぜ黒人奴隷はここまでひどく扱われているのか、不当である。ウォーカーの主張はそのようなものだ。


 しかし、19世紀後半に入ると、もはや旧約聖書は省みられない。代わりに持ち出されるのは「アメリカの繁栄は、一体誰によってもたらされたのか?(黒人がいたから、白人は今良い目を見てられるんだろ?)」ということ、そして、合衆国憲法である――憲法は人民の自由を保障しているのに、私たちは保障されていない!この2つの準拠点は、その後20世紀に入ってからも、ほぼそのまま継承されていると言って良い。


 これらの変化は、素朴で迷信深い黒人から法意識・歴史意識の高い教養深い黒人への“進化”として見られるべきではないだろう。むしろ、ここでは「アフロ・アメリカンによるアメリカ国民としての意識変化」が注目されるべきだ。アメリカの繁栄にしても、合衆国憲法にしても、それを準拠点として用いることは「我々はアメリカ人である」という声高な主張である。この準拠点の変化は「アフリカから連れて来られた人々」が「アメリカ人」になる過程を記録しているようにも思えた。





コメント

  1. ご存知かもしれませんが,『アメリカン・ソドム』などで巽孝之氏が語っていることですが,独立以前の白人たちも聖書的な物語を援用することで,自分たちの行為を正統化しようとしたのですよね.それらは聖書の記述に準拠したというだけに留まらず,元々神学の伝統の一つに「予型論」(タイポロジー)というものがあって,(「予型論」の元々の意味は旧約が新約と相関するというものですが)それが聖書の記述が現実を説明するという認識を支えていたところもあるのだと思います.先に現実が存在して,それに対してテキストという表象があるということではなくて,テキストが先にあって,現実はそのテキストの表象というか具現化というかアレゴリーというか,そういう思考があるのですよね.

    返信削除
  2. いつもながら勉強になります……。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...