スキップしてメイン コンテンツに移動

貧乏パワー




Please Please Me
Please Please Me
posted with amazlet on 06.06.27
The Beatles
Capitol (1990/10/25)
売り上げランキング: 90,781



 昔の私といえば「ビートルズは『Rubber Soul』以降しか聴く意味ないだろー」とか言っていたのだが(もちろん好きなメンバーはジョンで、あとジョージ)、最近になってガラリと聴き方が変わり「うひょー、『Twist & Shout』最高!」などと言って初期ビートルズ(アルバムにまだカヴァー曲が含まれていた時期)を聴いている。いつまでも「このアルバムの価値は…」とか言って分かったようなふりをして聴いている場合では無いのである。なんっつーか、単純に楽しければ良いんじゃない?と思う。





 EMI傘下のパーロフォンレーベルからデビューしたビートルズのファーストアルバム『Please, Please, Me』が僅か一日でレコーディングされたことは、もはや伝説として語り継がれている事実であるが、当時のパーロフォン(代表はジョージ・マーティン)は怪優ピーター・セラーズのコメディ・ソングなんかを細々と出してなんとか生き延びているような状況であったらしく、「スタジオが一日しか取れない」なんてのは仕方ない話だったみたいだ。起死回生をかけてデビューさせるバンドなのに…。





 まぁ言ってしまえば、すげー低予算で作られているわけで、貧乏な感じとかが聴いていて伝わってくる。個人的に「金がかかった音楽はなんでも手放しで褒める」という性格なので「貧乏サウンド」は敬遠しがち。けれども、テンションだけは無茶苦茶高くて、ポールが甘いポップ・ソングを歌っているときでさえ、『Sister』を出した頃のソニック・ユースぐらいの気合が入っている。カッコ良い。





 考えてみれば、ビートルズもブライアン・エプスタインの売り込みも虚しく、パイ、フィリップス、それからデッカと様々なレコード会社から「お前んとこのバンドがやってるような音楽はウチじゃ出せん」と云われてたわけで、切羽詰っていたのだ。一種のジリ貧状態から生まれてくるパワーっつーのは、軽々とお金のパワーを飛び越える、ということだろうか。演奏は無茶苦茶ヘタクソだけれど、関係なく楽しくなってしまう。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」