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リゲティ、死去。



http://www.asahi.com/obituaries/update/0612/007.html


 友人の家でW杯を観戦していましたが、帰ってきて一番驚いたのがリゲティ死去のニュース。日本の敗戦よりも大ショックです。





 以下は以前書いていたブログからリゲティに関する文章を抜粋。





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 ジェルジー・リゲティというルーマニア出身の作曲家に興味を持ち出してから、集中的に彼の音楽を聴いている。リゲティの作品というとキューブリックの映画に使われていることが有名で、私もそれぐらいしかしらず、てっきりトーンクラスターと電子音楽の人だとばかり思っていた。が、それ以降のポリリズムに傾倒し始めた時期の方が私にとっては断然面白かった。





 音楽史の教科書には「総音列主義(トータル・セリエリスム)は崩壊した」と書いてあるらしいんだけれども、実際いまだにセリエルな音楽っていうのは作曲界で幅を利かせている(実際どうか知らないけど。でも、ブーレーズがまだ生きているしねぇ)。提唱から1950年代から始まったトータル・セリエリスムが未だに「第一の作曲方法」なのだとしたら、それは結構


閉塞した状況だと言えるんじゃなかろーか。そんな閉塞に早々と見切りを付けていたのがリゲティだった。で、トーンクラスターとか電子音楽とかに向かうんだけれど、それも結構すぐに飽きちゃって、リズムに注目するわけですね。正確に言うとトーンクラスター/電子音楽期と複雑なリズム期の間には、ミクロポリフォニーという技法を提出した時期があるんだけれど、私にはよくわからない。すげーたくさんの声部があって、それが独立したり溶け合ったりして「一つのテクスチュアを形作る」らしーんだけど、結構聴取不可能なところがある気がする。





 で、やっとポリリズム期のリゲティの話。80年代に入ってからリゲティは《ピアノのためのエチュード》と《ピアノ協奏曲》という作品を書いているんだけれど、思うにこれらはセリエリスムに代わる作曲技法を用いた作品のなかで最も成功した作品だろう。もちろん、完全に調性に立ち戻っているわけではなくて(それじゃあ新ロマン派と変わりないし)、はっきりとした「メロディー」は皆無なんだけれど、溢れかえるように複数のリズムが同時に演奏されているときの「混ざらなさ」と「聴いていて頭が狂う感じ」が良い。あとピアノの超絶技巧とパーカッシヴな強音が動物的に楽しい。スティーヴ・ライヒも同じくポリリズムを多用しているけれど、リゲティの場合、変容があるから聴いていて飽きない。混ざらないリズム同士が相互に影響しあって、発展していくような感じ。





 「現代都市のサウンドスケープみたいだな」と思いながら聴いているのだが、これ爆音で聴いたら超アガりそう。まぁ、激しい曲ばかりじゃなくて、ほんとに涙が出るぐらい美しい曲もあるんだけれど。





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