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ジョージ・マーティンの『プロデューサー講座』




ビートルズ・サウンドを創った男―耳こそはすべて
ジョージ マーティン George Martin 吉成 伸幸 一色 真由美
河出書房新社 (2002/08)
売り上げランキング: 101,843



 「5人目のビートルズ」と呼ばれたビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンの自伝。初期ビートルズを聴き直しているのも、この本を読んでいたからだったりする。原文で読んでいないのに「翻訳が…」なんて言うのは、ちょっと変かもしれないけれど、これは明らかに翻訳が微妙…。英語は読めるけれど、日本語が下手な感じで意味がつかめない箇所が多い。イギリス人っぽい皮肉混じりのジョークを日本語に置き換えようとすると無理が出てきてしまう、ということなんだろうか。





 ともあれ、面白い本である。内容が濃ゆい。私のようにちょっとビートルズに入れ込んでいた人間であれば「ジョージ・マーティンは何者か?」というのは当然のように気にかかるところであるから。この人、結構いろんなことをやっていて、第二次世界大戦中はイギリス空軍のパイロット候補生だったとか言うエピソードが面白い。後はEMI入社直後、クラシック部門に配属されているときの仕事だとか、出てくる面子が異常に豪華。トーマス・ビーチャム、チャールズ・マッケラス…とイギリスを代表する指揮者の名前が出てくる。ビートルズが登場する前から楽しませてくれた。ビートルズ関連で一番熱いのは『Sgt. Pepper's …』の制作秘話だろうか。





 15章に分けられていて、自叙伝的な部分と、ジョージ・マーティンによる「音楽講座」みたいな部分が交互にやってくる。その「音楽講座」も大変面白い。私は別に音楽製作をしているわけじゃないけれど、音楽産業初期から現在まで機材の変遷など心惹かれるムダ知識である。あと「プロデューサーになるなら音楽ちゃんと勉強しとけよ」とか言ってる。





 読んでいて退屈なのは、EMIの待遇の悪さと契約上の揉め事の話ぐらい。そういうのはどうでも良いんだよな。ただのグチだし。でも全体として良い本です。



Yellow Submarine (Original Motion Picture Soundtrack)
The Beatles
Capitol (1990/10/25)
売り上げランキング: 103,558



 ジョージ・マーティンの「最高傑作」となるとやはり↑のアルバムに収録された「ジョージ・マーティン・オーケストラ」の演奏によるサントラになるんだろうか。結構みんな馬鹿にしていますけれど、良いですよ。





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