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ケージさえも真っ当な音楽に




フリー・ジャズ(+1)(完全生産限定盤)
オーネット・コールマン エリック・ドルフィー ドン・チェリー フレディ・ハバード スコット・ラファロ チャーリー・ヘイデン ビリー・ヒギンス エド・ブラックウェル
ワーナーミュージック・ジャパン (2005/12/07)
売り上げランキング: 69568



 オーネット・コールマン・ダブル・カルテットを聴く。左にオーネット・コールマンのカルテット、右にエリック・ドルフィーのカルテットを配置して、冒頭から怒涛の即興演奏が始め、それが37分に渡って続く……というフリー・ジャズの「名盤」に数えられる一枚だが、聴いてみるとやはりすごい。この録音の際にあらかじめ「作曲」が行われていてたのはソロを取る演奏者の順番とごく僅かなアンサンブル部分だけ。これはら伝統的な作曲観はおろか音楽観から外れたものだ。が、そのようにして作られた音楽は「でたらめ」にしか聴こえない。マジで。


 20世紀のアカデミックな音楽でこの「でたらめ感」に匹敵するものはあるかな、と思い色々探してみたのだがこのダブル・カルテットに勝るものは1つも無かった。逆に『フリー・ジャズ』は、ブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキスといった人たちの(理論に基づいて書かれているのにも関らず『でたらめ』に聴こえてしまう、と言われている)作品がいかに秩序だっているかを映し出す鏡になってしまうように思う。「偶然性」を用いたケージさえも、もうちょっと真っ当な音楽を作っていた気がする。「トランス状態でピアノを弾きまくり、それを弟子に書き起こさせた」というジャチント・シェルシ晩年のピアノ・ソナタはちょっと勝負できるかもしれない(聴いたことが無いので想像だけど)。


 オーネット・コールマンの高松宮殿下記念世界文化賞受賞はダテじゃないのである。


 ただ「音楽として面白く聴けるか」は全く別問題。音楽だけを聴いて、その全体を「面白い!」と思って何らかの言葉が紡げる人はかなりすごい気がする。『フリー・ジャズ』からどのような面白いことが言えるかコンテストとかすれば良い。音楽の良し/悪しという判断に「その音楽に(作曲理論のような)秩序が存在するか/しないか」は、あまり関係が無い話だ、とは思うがこれでは「語り」のきっかけとなるものがあまりに存在しないような気がする。「ドルフィーの地を這うようなバスクラが……」、「ドン・チェリーのトランペットが……」と部分を取り出して何かを語ることは容易だと思うけれど。ミメーシスするしかないのかもしれない。


 とりあえず、そういう「語りの困難さ」と「自由の困難さ」はすごく伝わる。





コメント

  1. もちろん、「でたらめ」はそれ自体ネガティブなものではないと私も思います。むしろ「でたらめ」感は好き。
    大友良英の整然さについてもGeheimagentさんに同意します。本人が言ったり書いたりしているように、それは宗教的原理主義と同じ意味での「原理」から逃れることに主眼が置かれているのだとすれば、「でたらめ」は目的ではないので、結果的に秩序だって聞こえたとしてもそれは問題ないのでしょう。
    ですから「でたらめ感」を馴れの感覚に還元することももちろん出来るのでしょうが、むしろ「でたらめ」をレトリックとして分析することには面白さがあるのではないかと思いました。Geheimagentさんが最初に「でたらめ」というレトリックのかたちで感じた感覚は、そのレトリックのなかにこそもっと基本的な問題(たとえば分析的で構造的な聴取に対する拒絶性としての「でたらめ」とか)を考えるヒントとして面白いものを含んでいるのではないでしょうか。特に聴取の問題との関連であれば、聴き直すと「でたらめ感」が失われることの説明にもなるのではないでしょうか。のではないでしょうかとか偉そうでしかも長々としかも話を転がしすぎてすみません。最初にも書きましたがいつも面白く読ませていただいております。エントリ楽しみにしております。

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  2. 頭の中に転がっていた「音楽から言葉を紡ぐ」ということに関する問題点が整理されるようなコメントありがとうございます。製作者の意図に関係なく『フリー・ジャズ』のような「でたらめ感」には、分析的で構造的な聴取に対する拒絶性がやはり含まれているでしょう。しかし、(今まで散々『でたらめに聴こえる』と言っていたにも関らず)『フリー・ジャズ』には何らかの分析可能な秩序が存在している。例えば、オーネット・コールマンの激しいブロウにもスケールっぽいフレーズが含まれているし(各々のフレーズ間で異なる調が使用されていることかもしれませんが)、右チャンネルから聴こえるフレディ・ハバードは「結構真っ当なハード・バップっぽい」アドリブを披露している。けれども、それを描き出すだけじゃ全然面白くないのだ、というのが(アドルノから学んだ)私の問題意識です。
    「聴きなおすことで」っていうことは、《反復》(デリダ?)などと一緒に考えたら良いのかな、などと思いますが全然勉強していないのでそのうち、そのうち……とか言っておきます。

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  3. はじめまして。いつも面白く読ませていただいております。
    コールマンの『フリー・ジャズ』は主に「テンポからフリーではない」「演奏者同士の呼応がある」という点で「でたらめ」ではない、と思っていました。まぁその微妙に「でたらめ」じゃないところが残っている加減が真のでたらめなのかもしれませんが。大友良英の『Anode』は「演奏者同士で応答し合ってはいけない」などの条件を作って、完全な「でたらめ」を注意深く追究しているような作品です。
    むしろ私にはコールマンの『Dancing In Your Head』所収「Theme From A Symphony」のうしろでぼこぼこ鳴ってるパーカッションが、リズムにはまってるはまってないに関係なく、もっともでたらめに聞こえます。

    返信削除
  4. コメントありがとうございます。このエントリを書き終えてから、10分後ぐらいに『フリー・ジャズ』で感じた「でたらめ感」とは単に情報量の違いなのかもしれないな、と思ってしまいました(ちなみに、『でたらめ』を私はネガティヴなものとして取り扱っていません)。
    『Anode』など「演奏者同士で応答し合ってはいけない」というルールが敷かれているということが、一定の規律となって「でたらめ感」が失われているように聴こえるのですね。大友良英のほかの作品を聴いていてもそうなのですが、例えば激しいフィードバック・ノイズによる即興演奏でさえもその音が整然と並んでいるように聴こえてしまう。これはも既にそういったものに対して私が馴れてしまっているせいもあると思います。
    「馴れ」に関して言えば『フリー・ジャズ』を聴き直せば、聴き直すほど最初に感じた「でたらめ感」が失われいき、一体あのインパクトはなんだったのだろう、と今思っているところなのですが。

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