スキップしてメイン コンテンツに移動

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか



 昨日書いたエントリに「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。


 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。


 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。


 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。


 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげられるのは文化、というか儀礼的なものがあるかもしれない。音楽学者、岡田暁生による『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 』にはこんな記述がある――「この時代(19世紀末~20世紀初頭)にあって『交響曲を演奏する/聴く』とは、ほとんど一つの宗教体験だった」(P.192)。19世紀末~20世紀初頭といえば、現代においてクラシックと呼ばれる西洋音楽が最もさかんに演奏され、円熟に達した時代である。そこで設定された崇高な体験の場としてのコンサートという場はいまだに意味を失っていないのかもしれない(『パルテノン多摩』というネーミングからもそれは察することができよう)。


 こうなると私のようなタイプの人は、みんな「クラシック教(狂)信者」ということになる。もし「クラシック好きな人ってなんでそこまで厳しくするの?」と不思議に思う方は、その怒りを「俺らがマジメに神さまにお祈りしてるのに、ガサゴソやりやがって!」的に解釈していただければ良い。それを「バカみたい」と嘲笑されても構わないのだけれど、やはり少しは気を使って欲しいというのが本音である。同じチケット代金を払って、一方は気楽に楽しみ、一方は不快な気持ちになりながら音楽を聴かなきゃいけない、っていうのはなんだか「マジメな人ほど損をする」みたいで悔しい。





コメント

  1. こんにちは。
    僕も時々ですがクラシックのコンサートに出かけますので、気持ちはよくわかります。
    ところで、ジャズのライヴとの比較が面白いと思いました。
    ジャズの場合、音量の違いもありますが、演奏に対する集中度が違うように思います。というか、最初から最後まで集中して聴けるほど演奏が面白くないのです。(個人的にですけれど。)
    だから、飲み食いしたりおしゃべりしたり、あるいはつまらなかったら途中で帰ってしまったりするのです。

    返信削除
  2. コメントありがとうございます。そうですね、成り立ちからいってもジャズはクラブのBGM(食事の添え物)でしたし、クラシックとはほとんど別物でした。もちろん西洋音楽史において、モーツァルトやヘンデルが食事の添え物だったことがあるでしょうが、日本に入ってきているクラシックはそれとは違う(すでに最初から『クラシック』として入ってきているはずです)。
    しかし、日本だとジャズ喫茶という非常にハードコアな鑑賞の場があること、また、音楽も60年代以降急速にクラシック染みた鑑賞の態度を求めるミュージシャンが増えていたこと(クラブからコンサートホールへ、という舞台の変化がある)もやはり単純に興味深い事象です。
    >最初から最後まで集中して聴けるほど演奏が面白くない
    これはクラシックにおいても、同じことが言えます。そこまで集中して聴ける面白い演奏会が毎回なわけではないです。ただし、面白くない、といって騒音をたてるような行為をする、これはやはり勘弁していただきたい。「つまらなかったら途中で帰る」これはクラシックでも推奨されていいことかもしれません(できれば曲間でお願いしたいですが)。

    返信削除
  3. 通りすがりの人日曜日, 23 3月, 2008

    クラシックに限らず、こういったフォーマルな音楽空間では、他人はもとより自分の言動も気になってしまい、どうも落ち着けません。
    よって音楽鑑賞はもっぱらCDにて行っています。場の空気を味わうのも音楽鑑賞の醍醐味だとは分かってはいるのですが…

    返信削除
  4. コメントありがとうございます。なんだかグールドみたいな発言ですね。私ももっぱらCDで音楽鑑賞するタイプで、コンサートは全く別物と考えています。
    海外のアーティストが出したCDと全く同じプログラムを生で聴きに行く。ここにはやっぱり儀式的なものを感じることもあります(自分のことですけれど)。

    返信削除
  5. 逆パターンで考えてみます。つまり「騒いでも良い時」
    ポップスやロックは「いつでも良い」(客に絡んでって暴れるのも有りますが)
    ジャズの場合は曲間に加え、各パートソロの間(基本的にはいつでも良いと思うのですが)
    クラッシックは曲間だけ。
    客の反応は演奏者が一番気にする所ですから、「演奏が素晴らしかったら騒ぐべき」だと思います。余りにはた迷惑な客はコンサートのスタッフがつまみ出すんで(笑)そんなに気負いして聞く必要は無いかと思います。客のマナー云々はそんなにワタシはそんなに気にしてはいません。お金を払って見に行っている訳ですから。「携帯電話の電源」と「禁煙/喫煙」だけ押さえておけば何ら問題ないかと。

    返信削除
  6. コメントありがとうございます。「騒ぐ」と「盛り上がる」ではまったく別次元の話かと思いますが……(クラシック・コンサートの終演後、『熱狂的な』拍手が続き、アンコールがある、というのもなかば儀礼化されているように思いますし)。
    気にしていない人もいる(そして大部分の人は気にしていないのでしょう、たぶん)というのは分かります。しかし、気にする人がいる。そして気負う人がいる。これを忘れられるとやはり困ります。

    返信削除
  7. クラシックコンサートに限らず、マナーや格式を守ることでより楽しめる場面は多々あります
    そのことを知らない人からはカタクルシイと言われ、あるいは厳しすぎるぞ何様だと言われてしまうハナシ
    実際は、一緒に食事に行った人がひどく汚らしい食べ方をしたら嫌でしょう?というのと場面と対象が違うだけなんですけどね

    ただ、「昨日のエントリ」での話を見る限りは仕方がないんじゃないかな?と思います
    というのも、最初にあるとおり2000円のチケットでいけたものだから
    高ければいいという訳ではありませんが、チケットや場所といったものはレベルの保証・篩い分けをしてくれる役割もあります
    先ほどのレストランの例で言えば、犬食いが気にならない人がいるところ、肘をついて食べても気にならない人がいるところ、食器をならしても気にならない人がいるところ、他人のマナーが気になっても敢えて口にしない人がいるところetc
    「昨日のエントリ」の最後で仰ったように現代は豊富な音源があるのですから、自分のいるラインを見定めてCDとコンサートとから選び取ればいいと思います

    それでもそう言った(我慢のならない)コンサートをご覧になるのなら、「マナーが悪かった」人たちにもきつく当たらず、見守る余裕があるといいかもしれません
    その人はもしかしたら、聞いた音楽に感銘を受けて周りの人に伝えたいと思ったけれど、ただ言葉が足りなかっただけかもしれないのですから

    返信削除
  8. 情景や物語を音で表現しようと試みるクラシックと、奏でる音でその場の雰囲気を作り上げるジャズ、
    他諸々。
    マナーが厳しすぎると耳にする話の裏には、一体何を目的として来ているのか解らない事が多々あります。

    色んな楽しみ方があっていいし、誰だって最初は未体験ゾーンな訳ですが、私がこれまで見てきた「クラシック聴きに行ったけれどマナーが厳しすぎる」と愚痴ってる人たちの最大の問題は、「俺ルールを押し通す(家の外でも自分の世界に入ったまま)」人が多いように見受けられました。
    「腹が減ったから」演奏中だろうがバリバリ食うなんて人や、携帯マナーモードでブルった度に席を外す人、ひたすらメールの返信してる人とか…

    まあ注意する人はする人で、携帯の電源切り忘れとか一度の失敗を徹底的にコキ降ろして粘着的に愚痴る人や、くしゃみにすら噛みついてくる人も居るしで、どっちもどっちのような気はしますけれども。

    返信削除
  9. ��Blavatskyさん
    コメントありがとうございます。「高ければいいという訳ではありませんが、チケットや場所といったものはレベルの保証・篩い分けをしてくれる役割もあります」というのは、もちろん分かっておりますが、高いチケット払っても(もしかしたら高いチケットを払ったから余計に気になる、という矮小な精神があるのかもしれませんが)気になる音が立てる人が周囲にいる、というのを何度も私は経験しております。先日のヒラリー・ハーンのときも、隣がまさにそういう人でした。
    大部分の人は黙って聴いているにも関わらず、少数のそのような無粋(?)な人のおかげで「コンサートマナーが悪かった」とゴチャゴチャ言うのも不等な気もしてきました(これは個人的に反省しなくてはいけない点でしょう)。
    「昨日のエントリ」については、チケットが安かったし、仕方ない部分もある、これは重々承知なところであります。しかし、演奏は素晴らしかった。これは完全なる私の我侭ではありますが、そういう素晴らしい演奏の合間に物事を立てるとは何事か!と思ってしまうのが正直なところです。

    返信削除
  10. とおりすがり月曜日, 24 3月, 2008

    厳しくないのは「ジャズ喫茶」だからでは。「ジャズコンサートホール」や「クラシック喫茶」があれば、また話は変わってくると思います。
    同じクラシックでもタキシード等の正装が必須のホールだってあるでしょうし、普段着OKのホールだってあるでしょう。その手のマナーを決めるのは、音楽の種類ではなくそれを開催している場所ではないでしょうか。

    返信削除
  11. ��MMXさん
    コメントありがとうございます。「俺ルールを押し通す(家の外でも自分の世界に入ったまま)」は、厳粛に音楽を聴く人とそうではない人のどちらにも言えることだと思います。「ここは音楽を厳粛に聴く場なんだから物音を立てるな!」と怒る人と「気軽に楽しみにきてまーす」と物音を立てる人、そのどちらにも「俺ルール」がある。この相容れなさをどのように中和していくかが問題かと思いますが、観客が多ければ多いほどそれは解決不可能な問題となるでしょう。
    「俺ルール」の指摘からは、電車のなかでのイヤフォンの音漏れや携帯電話での会話がタブーとされていることも少し考えました。電車の走行音は平気なのに、なぜ、音漏れや携帯電話での会話がタブーとされるのか(走行音のほうがよっぽどうるさいはずなのに)。ここには「公共空間における私的なものの漏れ出し」という問題があるように思われます(これは気が向いたら改めてエントリに書き起こすかもしれません)。

    返信削除
  12. ��とおりすがりさん
    コメントありがとうございます。とおりすがりさんの文意が読めるようで読めないのでちょっと困りますが返信させていただいます。「ジャズ喫茶」は、クラシックの演奏会よりもハードコアな場所だとイメージしていますし、「ジャズコンサートホール」もよくわかりません。また「クラシック喫茶」と銘打ってる喫茶店は「ジャズ喫茶」と同様にかなり厳しい私語厳禁ルールが敷かれている、というイメージがあります。店主の趣味でクラシックを流している「普通の喫茶店」と、ここは「クラシックを聴く喫茶店だ!」という目的で営業されている喫茶店はまったく別物かと思いますが……。とはいえ、イメージなので「実際とは違う!」という話をされても私としては「そうですか」というしかありませんし、そういうイメージを設定して話を進めているところに「そうではない!」と言われても「そういうイメージで話を進めているんです」と言うしかありません。
    とおりすがりさんと似たような感じで「場所がルールを設定している」というようなトラックバックが飛んできておりますが、私としてましては「何故、そのジャンル(場所)にそのようなルールが設定されているのか」というところを考えたつもりです。ですからこれは少し応対に困ってしまいます。「そのように読めない(お前が悪い)」と言われたら、これについても謝るしかないのですが。

    返信削除
  13. ��客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。
     それを逆手に取ったのが、4分33秒でしたっけか。

    返信削除
  14. 古代から貴族というか地位の高い人の物だったからじゃないでしょうか?時代とともに民衆も聞けるようになったとしても、昔の名残があるのでは。

    返信削除
  15. とあるホールのパンフの内容です。マナーが厳しい理由の一つといえるかと思います。
    ”「ホール全体が楽器」というくらい、響きが自慢の当ホール。実は客席内のちょっとした音もよく響いています。音の鳴るものを身に付けたり持ったりしていらっしゃる場合には、音がしないようにして、かばんの中に大切にしまってください。みなさんのちょっとした心遣いで、コンサートがもっと素敵に、楽しくなります。”

    返信削除
  16. ��闘栗鼠狩さん
    コメントありがとうございます。「それを逆手に取ったのが、4分33秒でしたっけか」。これは厳密には少し異なるように思います。これは作品解釈の問題となってしまうのですが、「4分33秒」は「雑音を聴く」作品ではなく「雑音が存在しない空間の存在のしなさ」を指摘した作品であるように思われるからです。ご存知かもしれませんが、この作品には楽譜が存在します。しかし、これには「tacet」(休み。演奏の中止を指示する記号)が書かれているだけです。楽譜上は「無音」が指示されている、にも関わらず、現実にはその間にも観客の呼吸音や衣擦れの音が演奏会場には存在している。つまり、ここでケージは楽譜に書かれたものが絶対視される西洋の芸術音楽におけるひとつの不可能性を告発しているわけです(これはとてもラディカルな問いかけだったように思います)。
    もちろん、そこに存在する騒音を鑑賞してもいいわけですが……これはちょっと馬鹿らしく感じます。

    返信削除
  17. >Xさん
    コメントありがとうございます。古代が時代的にどのあたりを示しているのかわかりませんが、現在の一般的に行われている演奏会のスタイルに貴族時代の名残といったものは一切存在しておりません。このあたりのお話は当エントリで紹介しました岡田暁生の著作や、渡辺裕の『聴衆の誕生ポスト・モダン時代の音楽文化』に詳しく書かれています。どちらもとても面白い本なので、オススメいたしますが、これらの本を参照いたしますと「昔の名残ではなく、むしろ民衆(市民)によって現代のマナーは形成されたのだ」ということが分かるかと思います。

    返信削除
  18. ��keithさん
    コメントありがとうございます。紹介していただいたパンフレットの文章、とても興味深く読ませていただきました(よろしければ、是非どこのホールで配られているものか教えていただきたいです)。とはいえ、やはりこういったマナーはそのように明示的に示されるのではなく、あくまで暗黙のものとして守られることが理想のように思ってしまいます。エントリの喩えで「儀式」などと書きましたが、そのように演奏と接する聴衆においてもそこまで肩に力が入った聴き方をしていないように思います(少なくとも私はそうです)。もちろん、私としては周りにも静かにして欲しい、と思いますが、色々な楽しみ方があります。そのような楽しみ方を私を否定するつもりもありませんし「静かにしろ!」と強制したこともありません。人によって「素敵なコンサートがどのようなものであるのか」は異なります。「静かにして欲しい」と思う一方で、あまり格式ばっているのもどうかと思うのです。

    返信削除
  19. クラシックはppppの部分もあるし制作費が凄くかかるので一音符とも聴き落とせないからでしょう。
    咳はクライマックスのfffのところでだけ刷るようにしております。

    返信削除
  20. 初めまして。クラシックのマナーには同意見ですが、一つだけ。あの決まり切ったアンコールとその後の演奏だけはクラシック独特(まぁロックにもあるか)には食傷気味で、少し薄気味悪くさえ感じます。クラシックのカーテン・コールって無くても全然構わないと思いますがどうでしょうか?

    返信削除
  21. 一年以上前のエントリにコメントありがとうございます。私もほとんど同意見です。多くの場合、アンコールは儀礼的に行われているし、たとえ、それがアンコールを求めるような演奏でなかったとしてもメインの演奏が終わればアンコールを求める拍手がある。不気味とまでは良いませんが、これはやはりよくない気もします。ただ、すべての観客が批評家のような耳で拍手をするしないを判断する(しなくてはならない)というつもりはありません。そのような状況はあまりに息苦しい。私としては「いつまでも拍手を送り続けたい」と思うような実演に触れたことが何度もありますし、「早くみんな拍手を止めて帰らないかな(人の前を通って席を立つのが面倒なので)」と思うこともあります。時と場合によります。「その日の演奏の出来によって厳密にアンコールをするかしないか決める」のは、今日の大規模なコンサート事情では不可能でしょうから、ある程度の儀礼化は免れないのかもしれません。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か