スキップしてメイン コンテンツに移動

ニコラウス・ステノ 『プロドロムス 固体論』





プロドロムス―固体論
プロドロムス―固体論
posted with amazlet at 11.04.28
ニコラウス ステノ
東海大学出版会
売り上げランキング: 780385



ニコラウス・ステノは17世紀に活躍したデンマーク生まれの学者で、この『プロドロムス』という本は彼が書いた地質学、そして物体の生成についての本だ。フルタイトルは『ニコラウス・ステノニスの固体のなかに自然に含まれた固体についての論文への前駆』となっており『プロドロムス』というタイトルは「前駆」と訳が与えられている「prodromus」から取られている。ステノの本意は彼の固体論を大きな作品としてまとめることにあったが、その「序説」として書かれたのがこの作品なのだ。あくまで序説なので、本文は結構短い(いろいろと事情があって自分の研究成果を短くまとめる必要があったらしい)。だが、その面白さは作品の規模と無関係に伝わってくる。結局この後にステノは『固体論』を完成させることなく没するのだが、その未完の仕事が素人目にも惜しまれるほどだ。




今では昔の地層から化石が発見されたからと言って、そんなに驚く人はいない。そりゃあ、自分の家の基礎を掘ったらティラノサウルスの頭部の化石が出てきたら驚くけれども、我々は化石というモノを「昔の生き物の骨が石みたいになって残ったモノ」と常識的に理解している。しかし、ステノが生きた時代はそうではなかった。地面を掘って化石が出てくると「なんかよくわからん珍しい形をした石」として処理されていたのだ。例えば、マルタ島ではサメの歯の化石が発掘されたが、それは「舌石」(舌の形をした石)と呼ばれた。それと一緒に貝の化石が発掘されることもあったが、それは「貝の形をした石」として考えられた。それらは海から離れたところで発見されたので、誰もサメの歯や貝の化石だと考えなかったのだ。



では、どうしてそんなサメの歯や貝の形をした石が掘り出されるのだろう? こういう疑問をもっていた人たちは、自然の形成力を信じていて、海と似たような条件が地中のなかに揃うと形成力のおかげで、地中のなかにも似たようなものが生成される、という風に考えていたらしい。これはアリストテレス流の考えで「なんかよくわからんものは、よくわからんパワーによって生まれてくるのであろう」という思考である(アリストテレスも『動物誌』のなかで、ウナギは自然発生する! と力説していた*1)。




こうした考えに対してステノは「いや、それはやっぱりサメの歯なんじゃないの? 貝そのものなんじゃないの?」と主張した。今は海から離れた場所でも、昔は海だったから地中からそういうモノがでてくるんだよ! ほら聖書にも書いてあるだろ、昔、大洪水が起こった、って! というようなことを彼は主張する。そして、化石が化石であることを理屈づけるために、彼はその地形の変化する過程や、土のなかに化石が保存される原理を説明するのだ。化石から地球論や固体論が始まるこの飛び方がすごいのだが、内容もまた刺激的である。




とくに第4部「トスカーナ地方に見られる大地の変化」は素晴らしい。ここでステノは世界の創造から大洪水、地形の変化について説明をおこなうのだが、彼は「世界の創造は紀元前4004年」という学説を採用しているらしい。また、こんな風にも言う。「古代人たちの記述のなかの多くの誤りを非難するものは、多くの間違いを犯すだろう。私は、古代人の作り話のような物語を軽々しく信用しようとは思わないが、そこにはまた信を置けなくはない事柄もある」。そして、アトランティス大陸の沈没や、ユリシーズの遍歴のなかで綴られた土地は実在していた、と言うのだ。こうした説明からうかがえるのは、現在とはまったく違った思考の枠組みだ。




丁寧な訳註と解説もまた本書を魅力的なものとしている。とくにステノも参照しているアタナシウス・キルヒャーの『地下世界』という本について触れられている部分に大変興味をそそられた。翻訳者である山田俊弘氏は、千葉県の高校の先生で勤務校でだしていた紀要に訳を載せていたそうだ。これもすごい話。山田氏とは縁あって一度一緒にお酒を飲んだことがあるのだけれど、またお話をうかがいたいなあ、と思った。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...