スキップしてメイン コンテンツに移動

読売日本交響楽団第503回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール




指揮:シルヴァン・カンブルラン(読売日響常任指揮者)


ピアノ:ロジェ・ムラロ


プロコフィエフ/バレエ音楽〈ロミオとジュリエット〉作品64 から抜粋


ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調


ラヴェル/左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調


ラヴェル/ボレロ



昨シーズン末の定期演奏会が震災の影響により中止となった読響のサントリー定期(《英雄の生涯》聴きたかったなぁ)、今季一発目は常任指揮者二期目となるカンブルランが登場。昨シーズンは「三つの《ペリアスとメリザンド》」という通年のテーマを設定していたが、今シーズンは「三つの《ロミオとジュリエット》」が通年のテーマである。本日のプログラムは、そのテーマからプロコフィエフと、お国モノであるラヴェル、という組み合わせ。ピアニストは1986年のチャイコフスキー・コンクールの覇者、ロジェ・ムラロ。彼については昨日までどんな人か知らなかったのだが、メシアンのスペシャリストである、という情報を仕入れてから俄然期待が高まった。





演奏の感想に入る前に一つ断っておくけども、昨シーズンはA席(今シーズンからはS席と呼び方が変わった席)でサントリー定期を聴いていた拙者だが、今季はもっとズギャャーンと肌で音を感じながら音楽が聴きたくなって、あえてB席、ステージ向かって右側のほぼオーケストラの裏側、テューバのベルのほぼ延長線上の席を確保している。この席では音の出元が近くなったので必然的に金管や打楽器のサウンドがビリビリくるほど聴こえる。またヴァイオリンも細かいニュアンスまで伝わる。木管のアンサンブルなどもよくわかる。





そうした楽しさがある一方で、最高ランクの席で得られるバランスや音の混じり方はほとんどわからなくなってしまった。とくにショックだったのは、本日の場合だとピアノの高音部がほとんど聴こえないこと。また、トゥッティだとピアノがまるごと聴こえなくなる(音の輪郭らしきものは聴こえるが、もしかしたら脳内で補完してるだけかもしれない)。幸い、カデンツァやオケの音が弱い部分だと問題なく聴こえたが、これには「あちゃー、失敗だったかな」と思ってしまった。





というわけで、今季の読響定期の感想は、非常におおざっぱなものになるであろー(指揮者が想定しているであろうバランスとは違う音を聴いているのだから、そういった点については沈黙するべきだ、と思う)。聴こえたものを聴こえたように書いていこうと思います。指揮者の表情が見えたり、会場全体を眺められたり、と視覚的に面白いポイントは多々あったりするんだけれどね。





さて、前置きばかりが長くなっているが、本日の感想。正式のプログラムの前に、震災の犠牲者への追悼演奏としてメシアンの《忘れられた捧げ物》! 当然なにかあるのだろう、と予想はしていたが、これはカンブルランらしすぎるセレクトで(不謹慎かもしれないが!)思わずニンマリ。しかし、メシアン初期の秀作である、この弦楽のための作品が演奏されはじまると、やはり「カンブルランのメシアンが聴けてラッキー」などと思えるはずがなく、和声の解決がないままに進行していくトリスタンの響きのなかで、沈黙を守るしかないのだった。楽曲の妖しい美しさは、哀悼を誘うのでもなく、穏やかに静かな空気を作り上げていく。





追悼演奏後のプロコフィエフは、非常にスムースなカンブルランらしい演奏だったと思う、が、あまり馴染みのない楽曲だったため「あ、なんかCMで聴いたことがある曲だ!」などと思っているうちに終わってしまう。そして期待のロジェ・ムラロの登場、ラヴェルの《ピアノ協奏曲》。まず、ムラロの2メートルはあろうかという長身にビビったが、しなやかな音楽の運びが目に付いた。派手なルバートがあるわけではない。しかし、時折、敏捷に音楽が揺らめく瞬間があり、それがとても良かった。一、三楽章のアンサンブルが複雑な部分では若干オーケストラがついていけていなかった感じもする。ノリノリになってきたときに身を乗りだしてオケを制御しようとする様子は、さながら第二の指揮者のようでもあった。全体的には理知的な印象を受けたけれども、ホットな一面もちゃんと見せてくれる演奏家なのかな。ただ、演奏終了後の挨拶の様子などは、ちょっとナヨッとしていて、オケを制御しようという身振りのときの表情とはまるで別人。





まあ、なんと言ってもラヴェルのピアコンと言ったら、二楽章なわけで。このカデンツァは、世界で一番美しい音楽のうちのひとつだと考えている拙者であるからして、これはもう当然目頭が熱くなりましたよおおおお。「ペチン!」というムチ音から始まるユニークな一楽章から、この世俗的っつーか、サロン的な響きが高まり過ぎてファンタジーの世界にいっちまいました、みたいな世界との落差はヤバいでしょう。穏やかに奏でられるピアノを、オケがまろやかな音で包んでいく。絶品ですよ!! もはや演奏云々ではなく楽曲が最強過ぎなのかもしれませんが、こういう音楽が聴けるから生きてて良かった、と思うし、こういう音楽が聴けなかった人たちの分も俺は音楽を聴くわ!! と思ったよ。





休憩後の《左手のためのピアノ協奏曲》。これも揺るぎない名曲ですわな。っつーか、ラヴェルってこんなにすげー名曲ばっかり作っててスゴいよね。マジで天才だと思う。これも良い演奏でした。ムラロは、アンコールに応えてメシアンの《八つの前奏曲》の一番最初の曲(たぶん)も弾いてくれました。またもや絶品。この作品はエマールの演奏でも聴いていますが、それよりもグッときたかも。昨シーズンの二月定期での神尾真由子もそうだったけれど「チャイコフスキー・コンクールの覇者」というブランドはなかなか侮れないものがあるのだなぁ、と思った。





ラストの《ボレロ》はこれまたド名曲ですが、ド名曲過ぎて通して聴いた記憶がなかった。これもまぁ、ド名曲過ぎて演奏どうこうの印象がないんだけれども(スネアが木管の前に置かれているという配置は一般的なものなのでしょうか?)、同じ旋律が続いて飽きてきたなーーーっていうところで、音が大きくなって盛り上がるのがとても楽しいと思った。トロンボーンのソロは、たっぷりと歌い込んでいるのか慎重なのかよくわからず「がんばれ!」と思ったけど、外さなくて良かった。





(今日から一人称を『拙者』にしてみましたが、これはスタパ齋藤氏のマネです。飽きたらやめます)





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...