西成活裕 『無駄学』

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無駄学 (新潮選書)
無駄学 (新潮選書)
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西成 活裕
新潮社
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『渋滞学』*1、『どんでもなく役に立つ数学』*2の西成先生の著作をまたもや読む。本書『無駄学』は文字通り、「無駄」を学問として取り扱ったとき、何が見えるのか、無駄を省いて社会や生産を最適化するためにはどうすれば良いのか……などなどを紹介する一冊。西成先生は「渋滞」という現象に含まれている様々な無駄を考えているうちに、これをひとつの学問として捉えたくなったそうである。つまり無駄学は渋滞学から生まれた副産物なのだ。





無駄というのは、なかなか捉えるのが難しい。渋滞であれば、何かが詰まったりなんかして、本来持っているスピードで物事が進まなくなった状態、という風に定義ができる。けれども、無駄はそれがどこで発生するかによって、無駄ではないもの、と捉えることができてしまう。例えば、コンビニで廃棄される賞味期限切れのお弁当は、無駄なもの、と言うことができるけれど、無駄に作った分もお弁当メーカーとしては「売り上げ」としてカウントされるわけで、それはお弁当メーカー的には無駄ではない、ということになる。結果的に無駄なものとなっても、儲けられる人がいる。それは本当に正しいことなの? と西成先生は、資本主義の仕組みそのものを問題視してもいて、本書は大変大きなテーマを扱った本でもある。





しかし、この無駄学が提唱されたのは、渋滞学よりも日が浅い。西成先生曰く、『渋滞学』は10年の研究の成果だったが、本書は生まれたばかりの学問の現状報告的なものに過ぎない、という。そのせいか本書の内容は社会のさまざまなところに潜む、さまざまな無駄を定義していくところに大きな分量が割かれていて、かなり散漫な印象を受けた。ほとんど飲み屋談義ほどの指摘も見受けられる(飲み屋談義で指摘できるほどに、社会には無駄が溢れている、とも言えるのだろうが)。





生産ラインの最適化の話では、トヨタ方式の業務改善がひとつの理想例として紹介されている。ここにも問題を感じてしまった。無駄を廃し、コストを下げ、生産性をあげることで、企業の業務効率は向上し、引いてはそれが企業の成績を底上げすることに繋がるのは理解できる。けれども、人間は機械ではないのだ。無駄がなくなって、「遊び」の部分がなくなることで、息苦しさやしんどさが生まれることもあるだろう。環境をコントロールすることで、ヒューマンエラーを減少させることは人間工学によって可能だ。しかし、それでもエラーは起こってしまう。遊びのないシステムにおいては、そのエラーの重大さは、遊びがあったときよりもシビアに捉えられるように思われる。





ものすごく最適化された会社、ないし社会のしんどさは、「かわりばんこ社会(一度自分が益を得たら、次の益を他人に譲ることで、長期的に社会全体の益が高まる社会)」という西成先生の提案が実現されたときに、解消されるのかもしれない。そこでは、共産主義的にトップダウンで益が分配されるのではなく、社会の構成員が「譲り合ったほうがトータルで益が高まるのだ」という合理的な判断力を身につけることによって、自発的に益の分配が行われる。なんだかプラトンばりの理想社会であって、そんな世の中が来たら「本当に素晴らしいことですねえ(ニッコリ)」と作り笑いをしたくもなる。





要するに「かわりばんこ社会なんかロマンティック過ぎるよ!」と言いたいのだが、その一方で「これを笑い飛ばさずに真剣に考える時期なのかもしれないよね、今は」とも思う。今も私は26歳で、少なくとも30年以上は働かなくちゃいけない。日本人で働くにあたっては、思いがけず、ドシーンとなんかめちゃくちゃに重いものが先月あたりに降ってきたじゃないですか。で、これからなんとかしていくにあたっては、それまでのやり方を復活させるんじゃなくて、新しいやり方、新しい日常を模索しなきゃいけないんでないの? なんてね。






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