スキップしてメイン コンテンツに移動

トマス・ピンチョン 『スロー・ラーナー』




スロー・ラーナー (トマス・ピンチョン全小説)
トマス ピンチョン
新潮社
売り上げランキング: 175710



英語やラテン語の勉強に本腰をいれていたら、「トマス・ピンチョン全小説」の刊行スピードにすっかりついていけなくなっていますが昨年の12月に発売されていた『スロー・ラーナー』を読了しました。これは『重力の虹』以降の長い沈黙のあいだに出版されたピンチョン唯一の短編集で、言ってみれば「アーリー・ワークス・セレクション」みたいなものだと言えましょう。それに作者自身による序文がついて1984年に出版されています。既訳はすでにちくま文庫に入っており、大変手に入れやすいものですが、実は私は読んでいませんでした(知り合いのピンチョン・ファンの方々がこぞって『おもしろくない』と言っていたので)。しかし、これにてピンチョンの既訳はすべて読んだことになり、立派に後ろめたい思いをせずにピンチョン・ファンを名乗ることができるってえわけだ! 訳者は『ヴァインランド』の佐藤良明。マニアックな調査に基づく訳註とテキストの文化的・意味的・音声的背景を理解した上での「超訳」が賛否両論ある訳者ですが、『ヴァインランド』ほどではないにせよ、今回も訳者のクセが発揮されている、と感じました。これはハマるとすごく良いのですが、たぶんハマらないと全然ダメな部分です。すんなりと読めない部分がある。でも、それが原文に対しての興味をそそったりもして。





ここには序文を含めずに数えると5つの作品が収録されています。ピンチョンというと、バカバカしくて、しつこくて、科学的修辞と薀蓄満載、という形容がすぐに思い出されますが、そればかりではない。さまざまなバリエーションがあってそこが「短編集」っぽい雰囲気を醸し出しているように思います。だから、嫌いな作品、まったく面白く読めなかった作品があっても良い……のでしょう、と自己正当化しておきます。私も全部が面白く読めたわけじゃなったので。「ロウ・ランド」、「エントロピー」、「シークレット・インテグレーション」。この3作は後の長編と直接的に繋がる要素が多く感じられ、大変面白く、大笑いしながら読みました。残り2作、スパイ小説の「アンダー・ザ・ローズ」はまだ良いとして、「スモール・レイン」はこれはキツかった。知り合いのピンチョン・ファンが「面白くない!」と言っていた理由が一瞬で理解できるような作品です。リアリズム風の文体で描かれたこの作品には「バカバカしくて、しつこくて、科学的修辞と薀蓄満載」というピンチョニズムがほとんどない。下品な雰囲気はあれど、やはりうんざりするぐらいしつこくないと、ピンチョンを読んでる感じがしませんね!(病気)





面白く読めた3作のなかでは「シークレット・インテグレーション」が特別光っているように思えました。「エントロピー」の迷宮的な感じと、バカバカしい乱痴気騒ぎの対比もいいのですが、「シークレット……」の少年文学らしさは異様なほど愛らしく、清々しいほどです。映画『スタンド・バイ・ミー』っぽくもあり、ブラッドベリの『たんぽぽのお酒』のようなノスタルジーもある。しかし、喜劇的な雰囲気は後のピンチョンにも繋がる。ちょうど『逆光』の「偶然の仲間たち」に感じる親しみが「シークレット……」の登場人物にも感じますね。もっとも読みやすいピンチョン作品としてもオススメしたいです。それから序文も大変興味深く読みました。これは謎の作家ピンチョンが、自身について語った部分もある貴重なドキュメントでもあります。私はこれまでピンチョンを「社会に流れる時間と隔絶した場所から、強大で奇怪な物語を送り続ける人」という風に捉えていたんですが(そうじゃなきゃ、あんな途方もないモノをかけないだろう、と)、若かりし頃、50年代・60年代のアメリカ流行をフッツーに通り過ぎていたりする。ピンチョンがケルアックを賞賛していたりするんですよ! これは驚きでした。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」