大友良英らによるインスタレーション展『アンサンブルズ2010 共振』*1には足を運んでいないけれど、先日購入したドキュメントDVD*2を観終えたので感想を書いておく。このインスタレーションを乱暴に要約してしまうと、ターンテーブルや楽器が自動的に音を出し、美術館の内部を音の回廊のように変貌させたもの……とでもいえるだろうか。そこで奏でられる《音楽》に同じ瞬間が訪れることはなく、また製作者自身どのように《音楽》が展開されるのか、その全貌を把握することはできない。偶然の音楽ではなく、どこかへ向っているもの、と大友が語るそのコンセプトは直ちに「管理された偶然性」(ブーレーズ)を想起させるものだし、また、インスタレーション的音楽/音楽的インスタレーションで言えば、シュトックハウゼンがそうしたものを制作していたような気がする(武満徹だったか? 記憶にあるのは音楽のなかを歩く《音の散歩道》というコンセプトで、もしかしたら構想されただけで、実際には作られていないかもしれない)。
同じ瞬間がおとずれず、さまざまに姿を変えていくこの展示された音楽は、最初から記録不可能なものであろう。このDVDもさまざまな可能性のなかから、たった一片だけを切り取ったドキュメンテーション、ということになる。よって、実際の展示とは不可分なもの(展示を観ていなければ、楽しめないもの)とも言えるだろうし、逆に、実際の展示とは独立したもの(展示を観ていても、聴いていなかったものが収録されているかもしれないもの)とも言える。
「完成した音楽を提供するのではなく、音楽を自分で発見してもらう」と大友はライナーノーツに書いているが、このDVDは「完成した音楽」としてパッケージ化されて提供されたものだ。
完成した音楽には「ここがはじまりで、ここがおわりですよ」という区切りがあるけれど、自分で発見する音楽には、どこにもそうした区切りがない。それは自分で設定するもので、また、そうしてはじまりとおわりを設定したところで、それが正解かどうかもわからない。そうした音楽は、どこまでいっても聴きつくすことのできない音楽、ということになる。いま、ふと思いついたけれども、その終わりがない感じ、というのは、即興演奏者はいつ演奏を止めるのか、という問題と繋がるのかもしれない。聴き手が音楽の区切りを決定付けることで、音楽を与える側と受ける側の区分は曖昧になる。これは普段「音楽を聴く」という態度とは全く違ったものだし、また、普段「音楽を聴く」というときに自分が何をしているかを浮かび上がらせるものにもなるかもしれない。私は、このDVDを観ながら、完成された音楽を受けとることの、安心感について考えてしまった(それはとてもラクチンな行為だ)。耳は音を受容する器官であって、音を出す器官ではない。『アンサンブルズ2010 共振』は、どこまでも受動的な存在である耳が、能動的になるイベントだったのかな。
あとこのDVDの普通のレコード店では買えないらしい。販売方法などは311のまえとあとと - 大友良英のJAMJAM日記の最後のほうに書かれています(水戸芸術館ミュージアムショップ「コントルポアン」のサイトのほうにはなにも情報があがっていなかった……)。
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