(承前)
結果を中立化してシンプルにした経済的な決定もよくわからないのであれば、そもそも最適化の原理を諦めて新しい決定モデルを作るべきなのでは、とルーマンは言います。ここで新しいモデルとして提案されるのがサイモンの「満足化決定モデル」でした。この満足化決定とは、ある一定の要求水準(満足化条件)を満たすことをやりましょう、ということです。これもとても日常的なことですが、ルーマンは、じゃあ、そうした日常的な試みがどのようにしたら合理的と呼ばれるようになるのか(どうしたら経済的な合理性基準の代わりになるか)について検討しました。
満足化決定であってもなにをして、なにをしないのか、についての選択は発生するわけです。だから、その選択が合理的であるためには基準を作る必要がある。そして、その基準は「具体的な目的を一つ決めてそれを優先するのではなく、抽象的な判断基準を設定しておき、当の決定が実現するすべての結果を、それに照らして検討する」というものになります。それって、これまでダメ出しされてきたものとどうちがうの? これに対してのルーマンの回答は「基準が行為を決定するという関係ではなく、基準が行為を統制する」という言い回しになっています。これにより満足化決定においては、基準によって唯一の目的が決められるのではなく、決定が状況に合わせて「交換可能なものとして体験される」ことになる。
最適化モデルでは、最適な一意の解を導き出すのが大変、というかこれは不可能。満足化なら要求を見たしているならまあ、OK。そのなかで複数解があるならそいつらを「交換可能なもの」として比較検討したうえで、決定が行われる。最適なものはそもそも求められていないので、決定者が持っている現実的な合理的能力でなんとかなる。実際行政でおこなわれてるのもこういうことなんだよ、とルーマンは言っています。最適解ではなく、満足解。行動の弾力性と適応能力も得られるし、状況はいろいろ変化していくものなのでマスト感が高い。
ここで満足化モデルを採用する場合、そのモデルのなかで決定を行う人は、満足条件という他者から与えられた行動期待を体験することになる。では、そうした行動期待ってどういうものなのか、というお話をルーマンはおこなっている。ここでのお話は、アメリカの産業社会学の影響が色濃く(あ〜、経営社会学の講義でこんあの聞いたなあ〜、とか思う)し、『新しい上司』のなかにも同じような話が出てくる。ルーマンは、行動期待を公式の期待と、非公式の期待との二つに区分する。公式な期待というのは、定式化されたもので、職務が最低限やらなくてはいけないこと、とされること、つまり最小限の満足化条件となる。
公式な期待とはあくまで最小限の満足化条件なので、実際にはこれに加えて非公式な行動期待が大量に存在する。この具体的な例示がとても面白いので引用しておきます。
その欠けた部分を提供するのが、今後の行政学理論の務めなのであ〜る、とルーマンは言います。で、その有望なアプローチが「国家と行政の機能理論」である、と。「この理論では、組織的な共同生活の存続、つまり組織の存続に資するような結果を導く決定が、満足な決定だとされる」んだとか。昔だったら、国家や社会が目指すべきたったひとつの目的が真理のように捉えられ、そこに向かって進むべし! という言い方ができた。でも今はそんなのないし、秩序を持った共同生活を維持するためのものが満足化条件の基準となるんだって。で、さまざまな組織を機能として考えることによって、交換可能なものはないか? とか、もっと良いものがあるんじゃないの? という分析が可能になるよ! というお話は『行政学における機能概念』にも出てきましたね。
(おしまい)
結果を中立化してシンプルにした経済的な決定もよくわからないのであれば、そもそも最適化の原理を諦めて新しい決定モデルを作るべきなのでは、とルーマンは言います。ここで新しいモデルとして提案されるのがサイモンの「満足化決定モデル」でした。この満足化決定とは、ある一定の要求水準(満足化条件)を満たすことをやりましょう、ということです。これもとても日常的なことですが、ルーマンは、じゃあ、そうした日常的な試みがどのようにしたら合理的と呼ばれるようになるのか(どうしたら経済的な合理性基準の代わりになるか)について検討しました。
満足化決定であってもなにをして、なにをしないのか、についての選択は発生するわけです。だから、その選択が合理的であるためには基準を作る必要がある。そして、その基準は「具体的な目的を一つ決めてそれを優先するのではなく、抽象的な判断基準を設定しておき、当の決定が実現するすべての結果を、それに照らして検討する」というものになります。それって、これまでダメ出しされてきたものとどうちがうの? これに対してのルーマンの回答は「基準が行為を決定するという関係ではなく、基準が行為を統制する」という言い回しになっています。これにより満足化決定においては、基準によって唯一の目的が決められるのではなく、決定が状況に合わせて「交換可能なものとして体験される」ことになる。
最適化モデルでは、最適な一意の解を導き出すのが大変、というかこれは不可能。満足化なら要求を見たしているならまあ、OK。そのなかで複数解があるならそいつらを「交換可能なもの」として比較検討したうえで、決定が行われる。最適なものはそもそも求められていないので、決定者が持っている現実的な合理的能力でなんとかなる。実際行政でおこなわれてるのもこういうことなんだよ、とルーマンは言っています。最適解ではなく、満足解。行動の弾力性と適応能力も得られるし、状況はいろいろ変化していくものなのでマスト感が高い。
ここで満足化モデルを採用する場合、そのモデルのなかで決定を行う人は、満足条件という他者から与えられた行動期待を体験することになる。では、そうした行動期待ってどういうものなのか、というお話をルーマンはおこなっている。ここでのお話は、アメリカの産業社会学の影響が色濃く(あ〜、経営社会学の講義でこんあの聞いたなあ〜、とか思う)し、『新しい上司』のなかにも同じような話が出てくる。ルーマンは、行動期待を公式の期待と、非公式の期待との二つに区分する。公式な期待というのは、定式化されたもので、職務が最低限やらなくてはいけないこと、とされること、つまり最小限の満足化条件となる。
公式な期待とはあくまで最小限の満足化条件なので、実際にはこれに加えて非公式な行動期待が大量に存在する。この具体的な例示がとても面白いので引用しておきます。
たとえば法規則には、長すぎもせず短すぎもしない適切な書類作成時間とか、決定の準備中はどの程度情報を隠蔽しておくのが適切かといったことを定めた、行政決定の方式についての非公式基準が存在する。これらを知らなければまったく仕事にならないため、新人行政官は何よりもまずこの非公式基準を覚え込まなければならない。行政官も大変である。こうした複雑な状況で仕事しなくちゃいけないときに、満足解が複数あるのはとても役に立つ。また、満足化条件を変数として扱うことによって、満足解が見つからない! というときには「すみませ〜ん、ちょっと条件を緩めてもらえないですかあ?」と条件のほうを変えることもできてグッド。期待と実績が調和することは社会的に重要で(調和すると安定する)、調和しなかった場合の例示もとても面白いので引用。
両者の一致を社会的に保証することに失敗すると、(仕事の困難度の評価が人によってまちまちになったり、他人からの期待との乖離が強まったり、その他いろいろな理由で)要求水準と実際の仕事との不一致が常態化し、決定者は感情的な行動に走ってしまうことになる。つまり攻撃的になったり、怒りっぽくなったり、無感動になったりと、様々な神経症的行動を見せ始めるか、あるいは自分の緊張を突然あらぬ方向に発散したりするようになる。自分の行動が制御できなくなるのである。もちろん感情一般が体験を安定化する役割を持っていると言えるならば、この種の感情的反応も安定化機能を果たしているということにもなるが、それは個々の人格にとって必要な機能であって、社会的秩序に必要ということではない。無茶な仕事を振られても、ゲェーッ! となるだけでイクナイ! ということでしょうか。しかし、こうして満足化条件を変えたりできる、ということはその条件設定もまた決定が必要なものであり、合理的な満足化モデルを採用するにあたっては、満足化条件もまた合理的に決定しなくてはならない。ただ、それは行政のお仕事ではなく、議会であったり、裁判所のお仕事である。では、満足化条件を満足化させる基準って……? ひとつは過去を参照することによって、前よりも良くしよう! という基準ができる。ただし、それだけじゃ足りない。そこには「その決定が正しいと言えるための合理的な基準」が欠けている。
その欠けた部分を提供するのが、今後の行政学理論の務めなのであ〜る、とルーマンは言います。で、その有望なアプローチが「国家と行政の機能理論」である、と。「この理論では、組織的な共同生活の存続、つまり組織の存続に資するような結果を導く決定が、満足な決定だとされる」んだとか。昔だったら、国家や社会が目指すべきたったひとつの目的が真理のように捉えられ、そこに向かって進むべし! という言い方ができた。でも今はそんなのないし、秩序を持った共同生活を維持するためのものが満足化条件の基準となるんだって。で、さまざまな組織を機能として考えることによって、交換可能なものはないか? とか、もっと良いものがあるんじゃないの? という分析が可能になるよ! というお話は『行政学における機能概念』にも出てきましたね。
(おしまい)
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