スキップしてメイン コンテンツに移動

隠岐さや香 「一七八〇年代のパリ王立科学アカデミーと『政治経済学』」

昨年『科学アカデミーと「有用な科学」 フォントネルの夢からコンドルセのユートピア』でサントリー学芸賞を受賞した科学史家、隠岐さや香さんの「一七八〇年代のパリ王立科学アカデミーと『政治経済学』」(2001)という論文を読みました(ダウンロードはこちらで可能)。本文はとても短い作品であっという間に読めてしまうのですが、政治と科学との分業(と有機的な紐帯)や、数字を用いた合理的な政治的意思決定の萌芽を読み取ることができ、とても面白かったです。

1780年代の「政治経済学」とは現代の我々が考えるようなものとはまるで違う。このことがいきなり面白い。筆者は『王立科学アカデミー年誌及び論文集索引目録』に掲載された「エコノミー」分野の一覧を見ています。そこでエコノミーに区分されているのは、繭の脱色、穀粒の保存法、病院の移転事業、パンの公定価格、人口統計など雑多なものです。しかし、筆者はここにエコノミーという言葉の意味の転換を読み取ります。

もともと「エコノミー」はギリシャ語のオイコス(家)に由来するオイコノミ(家政術)から派生した語であった。しかし 一八世紀になると、(一)「家事をとり行う際に示される規則・秩序」、すなわち、いわゆる家政術の意味のみならず、(二)「ある政体が存続するための秩序」、すなわち、いわゆる「政治経済学」に代表される意味にも拡張されるようになっていた。

次に筆者は後者の政治経済学的な研究の例として「屠殺場移転」の問題をとりあげています。パリの中心部に屠殺場が存在していたという事実が意外で興味深いですね。とは言え、その屠殺場は臭いとか、不衛生だとか言われ続けて14世紀から問題視され続けていたそうです(家畜が逃げて騒ぎになったりもするし)。しかし、パリのお肉屋さんが「えー、屠殺場が遠くなるのウザい」とか言って解決しなかった。

1789年の屠殺場移転問題を扱った報告書では、前半で屠殺場が市街地にあることの不衛生さや人体への影響などを化学的に取り扱い、後半では郊外に屠殺場を移転した際のコストが肉の価格に乗ってくるであろう問題をどのように解決するかの経済学的な研究となっている。屠殺場、というケガレを遠くに置こうとする意識変化はエリアスの『文明化の過程』(実は読んでないケド)を彷彿とさせます。

しかし、筆者にとって重要なのはそこではない。「問題自体はそれ以前から存在していたにも関わらず一七八〇年代に入ってから」科学アカデミーの問題になったことです。この時期からフランスにおいて科学と政治が密に結びつきはじめた証跡として筆者はこの事象を取り扱っています。もともと科学アカデミーは政治や宗教に対しては慎重でした。学者は学問をやっていればよろしい、というこの態度が、徐々に変わっていったようです。フランスで生命保険会社を設立するにあたっては、コンドルセとラプラスが政策的提言に意欲的だった、という話が論文中には紹介されています。科学の合理性が政治に要請されはじめ、科学のほうでも乗り気になっていた、という変化がとても刺激的ですね。科学と政治が問われている昨今、読まれるべき歴史的研究なのかもしれません。



科学アカデミーと「有用な科学」 -フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ-
隠岐 さや香
名古屋大学出版会
売り上げランキング: 289600

欲しい! けど、高価な本なので隠岐さんの別な論文を読みながら貯金します。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」