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黒羽清隆 『太平洋戦争の歴史』


太平洋戦争の歴史 (講談社学術文庫)
黒羽 清隆
講談社
売り上げランキング: 147251

昨今の情勢を戦争の暗喩で語る表現ほど凡庸で無粋なことはありますまい。しかしながらそれが凡庸である、無粋である、という実感こそが「それ比喩になってねーよ、マジで」というツッコミを呼び起こすのであります。つまり、比喩ではなく直接的な物言いではないですか、と。そんな現状であるからこそ、過去に我が国が総力を持って身を投じた戦争の歴史を参照するのは無駄ではないかもしれない……というのはまったくの後づけです。まあ「戦争の失敗からマネジメントを学ぶ本」(『もしもインパール作戦の前に牟田口中将がドラッカーを読んでいたら』)は普通にありそうですけれど、本書を読んで、太平洋戦争の歴史を振り返っても「リサーチは大事、情報命」、「リスクマネジメントはしっかり」、「収支の見通しを計算しながら事業を進めよう」とかホントに基本的なことしか学べないような気がしました。

タイトルに「太平洋戦争」とありますから先の戦争における中国方面の事情はほとんど省略されています。読んでいて素直に面白いのは前半部分の日本が戦争に至るまでの政局や外交模様、それから南方戦線でバカ勝ちしまくっているところですね。「えー、昭和天皇って結構戦争に乗り気だったんじゃん」とか「日米開戦って誘い込まれるようにして始まってたんだなあ」とか思いましたし(高校時代に日本史を真面目に受けていなかったため、なんか改めて勉強している気分)、開戦直後の快進撃は読んでるだけでアガってしまう。この勝ち方はアレです、パチンコでいきなりジャンジャラと銀玉が出てきてしまったときのアガり方に近い。

そこから後半はテンションが一気に盛り下がり、暗澹たる気持ちになるばかり。本書の記述は前半部分が密度が高く、後半のバカ負けしまくりシーケンスの部分はかなり端折って駆け抜けて行く感じがあるのですが、前半と同じ密度で負けっぷりを描かれたらちょっと東南アジアやグアム、サイパンあたりには恐れ多くて足を踏み入れられなくなりそう。そうでなくても歴史の重さを感じさせてくれます。

著者は敗戦時に国民学校六年生とあり、当時の記憶を自分史として綴っていますが、この部分はちょっとナシだったかも。もともと著者は杉並の割と裕福な家の生まれであって、疎開先であれこれひもじい、切ない、悲しい思いをした……とか書いているのですが、根が恵まれているせいか「これぐらいの話ならウチのじいちゃんの方が苦労していたわい!」とヌルいものを読んでしまった気分にさせられました。このほかにも随所で間奏曲的な文化史、風俗史の挿入があるのですが、そのどれもがあまりキマっておらず、変に読み物として射程を広げようとしなくても良かったのに……と少し残念。

戦略や政治に対する評価について、自虐史観的というか、日本はホントに酷いことをしたのだからもっともっと反省すべきだ! というトーンが基調として感じられます。それで変に感情が入っていたりすると「えっ」となる。占領下のアジア諸国において急激なインフレが起こった、という理由の説明に、横暴な日本人に対する現地人の憎しみが信用不安を……とか出てきたら「えっ」ですよね。「もっともっと反省すべきだ!」という考えには、はい、すみません、ごもっともです、と思いますが、歴史だけを読むのであれば、もっとクールな本が他にありそう。

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