スキップしてメイン コンテンツに移動

集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#12 リスペクトール『G・Hの受難 家族の絆』


G・Hの受難 家族の絆 (ラテンアメリカの文学 (12))
リスペクトール
集英社
売り上げランキング: 600210

旧ブログから続く「集英社『ラテンアメリカの文学』シリーズを読む」企画をおよそ一年ぶりに更新できます。前回がドノソの『夜のみだらな鳥』で、更新日を見てみたら2011年の3月26日とある。大きな地震からほどなくしてあんなとんでもない小説を読んでいたとはにわかに信じられませんね。地震で頭がおかしくなっていたのではないか、と振り返ってしまう。それはさておき、12巻目はブラジルの女性作家、クラリッセ・リスペクトールの『G・Hの受難』という中編と『家族の絆』という短編集を収録。このシリーズでは唯一の女性作家であり(チリのイザベル・アジェンデとかは選ばれてないんですね)、また唯一のブラジル人作家ということで特異な一冊、と言って良いのでしょう。他の国がスペイン語圏の文学なのに対してブラジルはポルトガル語ですからとにかく研究者が少ない。そういう事情も相まって、この翻訳の刊行当時(1984年)、ブラジル文学の紹介が日本では遅れている、という嘆きが翻訳者による解説にはあります。こうした状況は今どうなっているんでしょうかね。ブラジルだとシコ・ブアルキの小説が翻訳されていたりしてビックリしますが、ほかの国よりも何が起こっているのか、どういう人がいるのかちょっとよくわからない。

再び、閑話休題。『G・Hの受難』は私が苦手とする「イメージの氾濫系」かつ「意識の流れ」全開の実験的実存小説で、これはかなりキツかったです。リスペクトールがブラジルを代表する作家だ! と言われて、いきなりこれを読まされたら、かなりの人がドン引きしてブラジル文学を敬遠してしまいそう。なにせストーリーらしきストーリーはなく、密室のなかでとある上流階級っぽい女性がゴキブリを見つけ、それを潰し殺して、その死骸を見ている間に嘔吐体験的サムシングと出会ってしまい、なぜかその死骸を口に含む、というあまりにあんまりなお話。その間、延々と独白的な意識の流れによって、なんだかよく分からない相手に対しての語りが挿入され、ほとんど狂った人が宛先不明で書いた手紙を読まされるような読後感。意識の流れとイメージの氾濫は、言語化されることで失われてしまうサムシングを伝えるための実験、とでも言えるのでしょうが、今になって読むと、まあ、そんなことって無理ですよね〜、とか思えてしまう。カッコ良く言うと「サルトル meets ヴァージニア・ウルフ」なイキフンですけど、今読むにはキツいかなあ、と。

『家族の絆』のほうは『G・Hの受難』よりはもう少し読みやすく、面白く読めるのもいくつかありました。が、基本的に書いてあることって一緒なのですよね。生活のなかでなんらかのサムシングがあって、そこで自分の存在に対する気付きを覚える、という一連のパターン。そうした流れが『家族の絆』に収録された作品のなかではとても日常的な振る舞いのなかで発生するので、実存小説の変奏曲みたいにも読める。日常からボコッとどこかで落ちてしまうところはレイモンド・カーヴァーの作品にも通ずるところがあるかもしれません。そのなかでも「世界一の小女」という、探検家がアフリカの奥地で出会ったとても背の小さな人間の写真を見たいろんな人の反応から、身勝手な善意的なモノが不気味に描き出される短編は異色作。



こちらは、リスペクトールのインタビュー映像。1977年の映像なので彼女が亡くなった年のものですね(52歳で亡くなっている)。この鋭いビジュアルと態度はブラジル国内ではなにかのシンボルになっている模様で、なんか舞台化もされてる模様。ポルトガル語なので詳細は不明なんですが、メリル・ストリープがリスペクトール役に挑戦するんだって?

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」