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アヴェロエス 『霊魂論大注解』(英語版)の序文翻訳(1)

Long Commentary on the De Anima of Aristotle (Yale Library of Medieval Philosophy Seri)
Averroes
Yale University Press
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以下は、アヴェロエスの『霊魂論大注解』の英語版に付されたRichard C. Taylorによる序文の私訳。翻訳にあたって、注釈は省略、段落については適宜手を加えている。気が向いたときに続きも訳します(なお、100ページぐらいある)。

1168年から1169年にかけて、当時おそらく42歳だったアヴェロエスことアブー・アル=ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド・アル=ハフィード(同じ名前を持つ彼の祖父は高名な法学者・宗教学者だった)は、アリストテレスとギリシアの注解者に対する熱心な学究心をそそいでいた。その明白な証拠が『小注解集』 Short Commentaries や『要約集』 Epitomes というアリストテレス研究に残っている。ここでのアヴェロエスは、ギリシアやアラビアの注解者たちの理解に多くを頼っていた。

アヴェロエスが法律や神学、そして裁判官の仕事をしながら、アリストテレスのテクストと思考に注力できたのは、イブン・トゥファイルのおかげだろう。この時期、イブン・トゥファイルはムワッヒド朝の支配者であるアブー・ヤクーブ・ユースフの宮廷にアヴェロエスを紹介した。アブー・ヤクーブ・ユースフは、父親であるアブドゥルムーミンや宗教指導者、アル=マフディー・イブン・トゥーマルト(d. ca. 1129-1130)からムラービト朝の征服者の地位を受け継いでいた。

アブー・ヤクーブ・ユースフにはこんな逸話がある。彼は、天国は永遠なのか、それとも時間的な始まりをもつのかと疑問をかかげた。それはアヴェロエスはひどく悩ませるものだった。彼は、クルアーンが創造物であったという説が生まれてからというもの、その議題が重大な宗教上の派閥をわけるものであったことを熟知していた。アブー・ヤクーブ・ユースフがイブン・トゥファイルと議論し、そこで洗練された理解を示してから、ようやくアヴェロエスは議論に参加できるように感じた。彼はこの問題に対する自らの博識を開陳した。

明白なのは、イブン・トゥファイルの求めと、アブー・ヤクーブ・ユースフの庇護のもと、アヴェロエスが1169年に裁判官としてセヴィリアに任命され、アリストテレスの業績を明白にする仕事にとりかかり、注釈を進展させていたことだ。アブー・ヤクーブ・ユースフによる支援は、およそ今日『中注解集』 Middle Commentaries として知られるものへの依頼という形をとっていた。『小注解集』による要約は、これらの『中注解集』による書き換え作業に引き継がれた。その後、アヴェロエスは『大注解集』 Long Commentaries  のなかの『霊魂論大注解』 Long Commentary on the De Anima を最初に完成させる。おそらく1186年よりも少し前のことだ。

この『大注解集』は、ほかの注解集とは対照的である。『小注解集』のように過去の注解者や二次文献を参照した説明や、『中注解集』のようにアリストテレスの教えを易しく言い換えるような要約はおこなわれていない。言うなれば『大注解集』は、『矛盾の矛盾』 The Incoherence of the Incoherence のなかでアル=ガザーリーに対しておこなった有名な応答と同様に、注釈付きテキストのアラビア語完全版であり、かつ、ギリシアの注解者やアル=ファーラービー、アヴィセンナ、イブン・バージャのほか当時参照できたであろうアラビアの伝統的な思想家たちに依拠した詳細な議論の分析を含んでいるのだ。

しかし、『大注解集』でもっとも注目すべきなのは、アヴェロエスが丹念にテキストを追いかけ、アリストテレスがしばしばおこなう簡潔な議論に詳しい説明を加えた労力だ。『霊魂論大注解』に加えて、アヴェロエスは晩年、年代ははっきりしないものの次のアリストテレスの著作へと注解をほどこした。

  • 『分析論後書』 Posterior Analytics (?)
  • 『自然学』 Physics (1186年、またはその後)
  • 『天体論』 De Caelo (1188年)
  • 『形而上学』 Metaphysics (1190年)

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