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Svetlana Alpers 『The Art of Describing: Dutch Art in the Seventeeth Century』

The Art of Describing
The Art of Describing
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Svetlana Alpers
Univ of Chicago Pr (Tx)
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アメリカの美術史家、スヴェトラーナ・アルパースの『描写の芸術』を読む。本書の内容については日本語版Wikipediaのページにも簡単な記述があるけれど、ざっくりと語り直すのであれば、パノフスキーが提唱するイコノロジー(図像解釈学)によっては評価しきれないオランダ絵画を、別な道具立てによって読み直すことによって、美術史をひっくり返すような意欲的な試みがなされた本、とでも言えるだろうか。イコノロジーはイタリア絵画を読み解くには有効な道具だったが、その観点からするとオランダ絵画は「物語や意味が隠されていない、ただ単に『世界』を描いただけの絵」として価値を貶められていた。ヴァザーリやミケランジェロもそうした価値付けをおこなっている。彼らにとって真の芸術とは、画面構成の調和と加えて絵のなかに込められた物語や意味があってこそ成立する。オランダ絵画にはそういうのがないのでダメだ(イタリア絵画こそ、真の芸術なのだ)というわけである。アルパースはそれを「いや、むしろオランダ絵画は『世界』をそのまま捉える芸術なのだ」と意味付ける。

イタリア絵画との対比をしばしば加えながら、アルパースはオランダ絵画における「世界を捉ようとする欲望(博物学的な欲求)」を見出していく。そこではケプラーの光学理論やフランシス・ベーコンの分類学に共感を得ていたオランダの知識人や芸術家が顧みられ、また地図製作者たちのポリシーが、オランダの画家と共鳴していることが主張される。掲載されている図版のなかには、ロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されている作品が数多くあり、今年のイギリス旅行のまえに手をつけておけば良かった、というのが個人的な反省点。本書が提示するオランダ絵画における博物学的な欲求については、ダストン&パークの『驚異と自然の秩序』にも通じている(この本でも、フランシス・ベーコンは重要な思想家として扱われているのだった)。

博物学的欲求からやや離れたテーマが扱われる第5章「Looking at Words: The Representation of Texts in Dutch Art(言葉を見る: オランダ絵画におけるテクストの表現)」もまた面白く読んだ。イタリア絵画に描かれる題材は、例えば聖書の一場面であったり、神話の一場面であったり、と画面から物語のテクストが読み取れるものだ。それに対してオランダ絵画における静物画であったり、風景画であったり、あるいは民衆の生活の一場面を切り取ったものであったりには、そうしたテクストを読み取ることはできない。もちろん、ヴァニタスのように寓意的な静物画があるものの、そうしたテクストの不在(なんというか、こういう言い回しをするだけで現代思想っぽいが出る)がまたオランダ絵画の価値を貶める要因でもあった。これに対して、アルパースは17世紀オランダ絵画の画面に書き込まれたテクスト(絵画から読み取られるテクストでなく、画面上に現れたテクスト)の機能や、(現存するフェルメールの絵画で描かれているような)手紙という題材について着目する。テクスト不在の絵画のなかから、テクストを発掘するのである。

このうち、手紙という題材の解釈は、何年か前に渋谷のBunkamuraで開催された企画展「フェルメールからのラブレター展」を想起させる。振り返るとこの企画展で紹介されていた17世紀のオランダの手紙事情(フランスで書かれた手紙のお手本集がオランダ語に翻訳されベストセラーになっていた、とか)や意味付けは、まるっきりこの本から引用していたんじゃないか、という気づきがあった。こうした彼女の読解方法は「ニュー・アート・ヒストリー」という概念の提唱であるらしい。読んでいるうちに「これも新しい解釈学、別なイコノロジーに過ぎないのでは……」という気にもされられるのだが、大変刺激的な本だった。以前にディディ=ユベルマンの本について書いたときに告白したとおり、絵画のような視覚文化には、アウェー感を感じるところではあるのだけれど、引き続き、ゴンブリッチなどの(アルパースからすればオールド・スクールな)美術史についても勉強していきたい。

描写の芸術―一七世紀のオランダ絵画
スヴェトラーナ アルパース
ありな書房
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邦訳もあり。ただし現在は絶版のため、プレミア価格がついてしまっている……。ちくま学芸文庫とかに入ると良いな、とは思うけれど、そんなに英語は難しくないので読みたい人は原著で読んでも良いのかも。ただし、ペーパーバック版はB5サイズという持ち歩くには大変不便だし、電車のなかで立って読むには苦行を強いられる大きさなので注意が必要。図版が大きく見れるのは良いけども。

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