韓 非 金谷 治
岩波書店
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たとえば、アリストテレスは、永遠に不変な天上界と、生成消滅を繰り返す月下界に分けて考えた。彼の世界観では、それぞれの世界で、まったく別な原理が働いている。対して、老子も永遠に存在する「道」と、生成消滅を繰り返す「理」というふたつの原理を唱えている。道は永遠に存在するゆえに定まりがない。つまり、無限である。理は始まりがあり、終わりがある。定まっている。だから、理解できる。一方で、道は定まりがないから理解できない(そうした捉えどころがないものを道と無理やりに命名した)。こうした無限の理解できなさ(世界の根本原理へのアクセスできなさ)は、クザーヌスやメランヒトンによる神の概念にも通じているように思った。ただ「万物はそれぞれに違った理を備える」(P. 51)とあるので、なんかトマス・アクィナスにめちゃくちゃ批判されそうな感じはある。
で、韓非は、歴史上に名だたる君主はこの道を得てきたのだ、という。前述の通り、捉えられないのが道である。それを得るとはどういうことなのか、と思うのだが、一時的にせよ、水のように絶えず流れる道を得ることはできる。ただし、そこで得たものは毎回通用するわけではない。そのときの道にあったものを君主は得ていただけである。「法律が大事!」と言いながら、具体的な法律について韓非が触れていないのもこういうところに理由があるのかも。韓非はこんな説話も紹介している。
王寿は書物を背負って旅をし、周にゆく道で徐馮と出あった。徐馮が言うには、「事業とは人の行為である。行為はその時その時の情況に応じて始めるから、知者は固定的なきまったことはしないものだ。今、そなた、どうしてまた書物を背負って旅をされるのか」。そこで王寿はそのまま持ってきた書物を焼きはらって、喜んで舞い踊った。(P. 94)ひょっとすると韓非の法家思想とは、道を見誤らないための消極的な指針でしかないのかもしれない。積極的には「君主は虚心になれ」と言う。これは第1冊を読んだときに感じた君主の透明性とも通じている。心を持ち、私を出すと失敗するぞ、と。
第2冊は説話も豊富で(重複もあるんだけれど)第1冊より面白く読んだ。とくに「内儲税」という部分。ここでは君主が「こういうことやっておくと国が安定していいぞ!」というポイントと「これやると滅亡するぞ!」というポイントが示されている。
とくに「いいぞ!」なエピソードについては、なかなか現代的な感じのものもある。ひとつは「これやると褒美をだすよ〜」と見せつけておいて、臣下のモチベーションあげろ、と。ただ、これ今でいうとモチベーション1.0的な感じで、韓非の世界だと「褒美を得るためなら自分の首を切って、君主に献上する(評価・お金のためならなんでもします)」みたいな話だから、ワタミかよ、と思った。もうひとつは「臣下に『君主はなんでもお見通しなんだゾ』と思わせとけ」的なもので、ほう、こりゃあパノプティコンじゃないの、と思った。
基本的に人が殺されたり、死んだりの血なまぐさい話ばかりなのだが落語みたいな話が混ざっているのも楽しい。「燕の人が、気がおかしくなったわけでもないのに、わざと犬の糞を浴びせかけられたという話」(P. 320)とかなにごとかと思う。
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