スキップしてメイン コンテンツに移動

村上春樹を英語で読み直す 『スプートニクの恋人(Sputnik Sweetheart)』

Sputnik Sweetheart
Sputnik Sweetheart
posted with amazlet at 15.01.22
Haruki Murakami
Vintage
売り上げランキング: 1,313

昨年の11月にアダム高橋さんが運転する車に乗って、仙台から山形まで男ふたりのドライヴをしたことがある(これは先日ご紹介した電子書籍のなかでも触れられているお話)。車中はずっと中世哲学や日本美術の話をしていた。かなり浮世離れした話である。しかも乗っている車はドイツの大変有名な高級車だ。革張りのふかふかしたシートに体を収めて、高速道路を走り「アヴェロエスの知性単一説って……」だとか「オッカムの言語論って」だとか話しているうちに、わたしは現実離れした感覚を覚えて「なんかこれって村上春樹の小説みたいですね」と言った。

「そういえば、こないだ『スプートニクの恋人』を読み直したんですよ。あれはなかなか素晴らしいですね。比喩表現の技巧の凝らし方が超絶技巧というか。村上春樹自身、すごく凝りまくって書いたらしいんですが」

とアダムさんは答えた。その作品はたぶん10年ぐらい前に読んだきりだった。村上春樹の作品のなかでは、好きでも嫌いでもない小説という印象しか残っておらず、わたしはほとんど内容を覚えていなかった。それで車中の話題はその後しばらく、小説のあらすじを思い出すための問答になった。「レズビアンの小説ですよね。なんか、女の子が消えちゃう話で。えーっと、最後はあの女の子は戻ってくるんでしたっけ?」、「途中でギリシャにいきますよね」、「主人公が自分の教え子の母親と不倫してるんですよね(なぜかこれだけよく覚えていた)」。昔読んだ小説について、ふたりで話しながらそういう風に話すのは、まるで思い出話に花を咲かせているようで楽しかった。

で、これをきっかけに今年の正月休みのときから『スプートニクの恋人』を読み直していたのだった。日本語で読み直すのもつまんないな、と思って『ダンス・ダンス・ダンス』に引き続き、英訳を。

英訳された日本文学を読むことで得られる視線

以前に『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだときも感じたことだけれど、村上春樹の英訳って全然違和感なく読めるし、(一度日本語で読んでいることもあるけど)めちゃくちゃ読みやすいし、普段学術書じゃでてこないような表現も勉強できるので教材としてなかなか良い。今回は読んでいて、小説に描かれている日本の日常的風景・習慣を、英語圏の読者はどのように理解するんだろうか、と気になる部分がいくつかあった。

たとえば、主人公が冷蔵庫から麦茶を取り出して、飲む、とか。夏の、一人暮らしをしている主人公の部屋でのシーンだ。日本人なら冷蔵庫に麦茶が常備されてても全然不思議に思わない。でも、英語圏の読者にとってはどうなんだろう、とわたしは疑問に思った。barley tea(麦茶)がいきなり冷蔵庫からでてきて「なんで?」とならないのかな、と。もし翻訳者が佐藤良明的な人だったら、ここで訳注をつけて「日本の一般家庭では夏になると麦茶を冷蔵庫に常備するのは広く一般的なこと」とか書いていてもおかしくないんじゃないか、とさえ思った。でも、まあ、普通に冷たいお茶ぐらい冷蔵庫に入っててもおかしくないか。それが日本では麦茶である、というだけで。

そもそもわたしは最初「barley」という単語がわからなくて調べて「ああ、麦茶ね」と思ったところから、こういう疑問が湧いたんだけれど、英訳された日本文学に触れることは、そういうちょっとしたつまづきから「日本がどういう風に読まれるのか?」という海外からの視線について意識が及ぶ機会を持つきっかけになるかもしれない、と思う。

すごく異質な作品なんじゃないの、主人公の立ち位置とか

この作品の日本における人気を知らないんだけど、たしか日本以外でもかなり人気が高いとか聞いた覚えがある。10年ぶりぐらいで読み直してみると、これは海外受けしそうな感じであるなぁ、という感想が湧いた。英語ネイティヴじゃないから、わたしが文章から受け取るイメージが、英語ネイティヴが受け取るそれと重なるかどうかは不確かではある。が、海外の人が村上春樹を語る際の「幻想文学」というキーワードがよく理解できる英文になっている(ような気がする)。フォーカスがあたっているところ以外は画面全体がぼや〜っとしていて、ちょうどトイカメラで撮影した写真みたいな、そういう印象を受ける。

改めて読んだら、この小説の主人公って村上春樹の小説の主人公のなかでも屈指の受け身男、とも思った。流されてるわけじゃないのだが、全然自分では動かない。すみれに会いたくても、自分では動かない(彼女からの電話を待つだけ。なにしろ、すみれの家には電話がない)。ギリシャにいくのも呼ばれたからだし、なぜか知らないがある種の女性は黙っていても寄ってくる。教員になったのもたまたま親戚に教育委員会の人がいたからだ。なにかを目指しているわけでもない。ギリシャに行くけど、なにかを解決して帰ってきたわけでもない。それでも、淡々と呼ばれたところで冷静なアドバイスをしたりして、役に立ったりはする。

最後も寂しいな〜、すみれに会いたいな〜、と待っているあいだに電話がかかってくる。村上春樹の小説の主人公って、大抵受け身ですけど、なにかはやるじゃないですか。なんかよくわからないけど、メタファーを羽織った重要な鍵というか秘密のスイッチみたいなのがあって(骨とか井戸とか羊男とか)、よくわからないけど主人公は最後に鍵を見つけたり、スイッチ押したりする。この小説の主人公は、それすらしてない。これ、めちゃくちゃ異質な感じがしたんだよね。

万引きして捕まった教え子に、あれこれ話をするけど、これは「やった」うちに入るのか。「向こう側の世界」に通ずる穴に向かって語っているように思える(でもその梨の礫感はしんみりして良いんだけれど)。

作中でも主人公が「これは僕の物語じゃなく、すみれの物語だ」と言っている。その言葉通り、主人公は主人公じゃなく徹底した傍観者なんだな。ほとんど一人称で語られながらも、かなり三人称に近い物語だと思う。主人公は動かないのに、視点だけふわふわしている。その辺の語り方も、この作品の持つトイカメラみたいな世界観に一役買っているのかも。あと物語の動かし方はすごく上手いな〜、と思いました。すみれと登場人物の関係が変わるたびに、どんどん物語も動いていく。ソフトで静かなんだけど、よく動く。だから、全然飽きずに読めました。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...