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村上春樹を英語で読み直す 『スプートニクの恋人(Sputnik Sweetheart)』

Sputnik Sweetheart
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Haruki Murakami
Vintage
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昨年の11月にアダム高橋さんが運転する車に乗って、仙台から山形まで男ふたりのドライヴをしたことがある(これは先日ご紹介した電子書籍のなかでも触れられているお話)。車中はずっと中世哲学や日本美術の話をしていた。かなり浮世離れした話である。しかも乗っている車はドイツの大変有名な高級車だ。革張りのふかふかしたシートに体を収めて、高速道路を走り「アヴェロエスの知性単一説って……」だとか「オッカムの言語論って」だとか話しているうちに、わたしは現実離れした感覚を覚えて「なんかこれって村上春樹の小説みたいですね」と言った。

「そういえば、こないだ『スプートニクの恋人』を読み直したんですよ。あれはなかなか素晴らしいですね。比喩表現の技巧の凝らし方が超絶技巧というか。村上春樹自身、すごく凝りまくって書いたらしいんですが」

とアダムさんは答えた。その作品はたぶん10年ぐらい前に読んだきりだった。村上春樹の作品のなかでは、好きでも嫌いでもない小説という印象しか残っておらず、わたしはほとんど内容を覚えていなかった。それで車中の話題はその後しばらく、小説のあらすじを思い出すための問答になった。「レズビアンの小説ですよね。なんか、女の子が消えちゃう話で。えーっと、最後はあの女の子は戻ってくるんでしたっけ?」、「途中でギリシャにいきますよね」、「主人公が自分の教え子の母親と不倫してるんですよね(なぜかこれだけよく覚えていた)」。昔読んだ小説について、ふたりで話しながらそういう風に話すのは、まるで思い出話に花を咲かせているようで楽しかった。

で、これをきっかけに今年の正月休みのときから『スプートニクの恋人』を読み直していたのだった。日本語で読み直すのもつまんないな、と思って『ダンス・ダンス・ダンス』に引き続き、英訳を。

英訳された日本文学を読むことで得られる視線

以前に『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだときも感じたことだけれど、村上春樹の英訳って全然違和感なく読めるし、(一度日本語で読んでいることもあるけど)めちゃくちゃ読みやすいし、普段学術書じゃでてこないような表現も勉強できるので教材としてなかなか良い。今回は読んでいて、小説に描かれている日本の日常的風景・習慣を、英語圏の読者はどのように理解するんだろうか、と気になる部分がいくつかあった。

たとえば、主人公が冷蔵庫から麦茶を取り出して、飲む、とか。夏の、一人暮らしをしている主人公の部屋でのシーンだ。日本人なら冷蔵庫に麦茶が常備されてても全然不思議に思わない。でも、英語圏の読者にとってはどうなんだろう、とわたしは疑問に思った。barley tea(麦茶)がいきなり冷蔵庫からでてきて「なんで?」とならないのかな、と。もし翻訳者が佐藤良明的な人だったら、ここで訳注をつけて「日本の一般家庭では夏になると麦茶を冷蔵庫に常備するのは広く一般的なこと」とか書いていてもおかしくないんじゃないか、とさえ思った。でも、まあ、普通に冷たいお茶ぐらい冷蔵庫に入っててもおかしくないか。それが日本では麦茶である、というだけで。

そもそもわたしは最初「barley」という単語がわからなくて調べて「ああ、麦茶ね」と思ったところから、こういう疑問が湧いたんだけれど、英訳された日本文学に触れることは、そういうちょっとしたつまづきから「日本がどういう風に読まれるのか?」という海外からの視線について意識が及ぶ機会を持つきっかけになるかもしれない、と思う。

すごく異質な作品なんじゃないの、主人公の立ち位置とか

この作品の日本における人気を知らないんだけど、たしか日本以外でもかなり人気が高いとか聞いた覚えがある。10年ぶりぐらいで読み直してみると、これは海外受けしそうな感じであるなぁ、という感想が湧いた。英語ネイティヴじゃないから、わたしが文章から受け取るイメージが、英語ネイティヴが受け取るそれと重なるかどうかは不確かではある。が、海外の人が村上春樹を語る際の「幻想文学」というキーワードがよく理解できる英文になっている(ような気がする)。フォーカスがあたっているところ以外は画面全体がぼや〜っとしていて、ちょうどトイカメラで撮影した写真みたいな、そういう印象を受ける。

改めて読んだら、この小説の主人公って村上春樹の小説の主人公のなかでも屈指の受け身男、とも思った。流されてるわけじゃないのだが、全然自分では動かない。すみれに会いたくても、自分では動かない(彼女からの電話を待つだけ。なにしろ、すみれの家には電話がない)。ギリシャにいくのも呼ばれたからだし、なぜか知らないがある種の女性は黙っていても寄ってくる。教員になったのもたまたま親戚に教育委員会の人がいたからだ。なにかを目指しているわけでもない。ギリシャに行くけど、なにかを解決して帰ってきたわけでもない。それでも、淡々と呼ばれたところで冷静なアドバイスをしたりして、役に立ったりはする。

最後も寂しいな〜、すみれに会いたいな〜、と待っているあいだに電話がかかってくる。村上春樹の小説の主人公って、大抵受け身ですけど、なにかはやるじゃないですか。なんかよくわからないけど、メタファーを羽織った重要な鍵というか秘密のスイッチみたいなのがあって(骨とか井戸とか羊男とか)、よくわからないけど主人公は最後に鍵を見つけたり、スイッチ押したりする。この小説の主人公は、それすらしてない。これ、めちゃくちゃ異質な感じがしたんだよね。

万引きして捕まった教え子に、あれこれ話をするけど、これは「やった」うちに入るのか。「向こう側の世界」に通ずる穴に向かって語っているように思える(でもその梨の礫感はしんみりして良いんだけれど)。

作中でも主人公が「これは僕の物語じゃなく、すみれの物語だ」と言っている。その言葉通り、主人公は主人公じゃなく徹底した傍観者なんだな。ほとんど一人称で語られながらも、かなり三人称に近い物語だと思う。主人公は動かないのに、視点だけふわふわしている。その辺の語り方も、この作品の持つトイカメラみたいな世界観に一役買っているのかも。あと物語の動かし方はすごく上手いな〜、と思いました。すみれと登場人物の関係が変わるたびに、どんどん物語も動いていく。ソフトで静かなんだけど、よく動く。だから、全然飽きずに読めました。

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