「フィジーとヨーロッパの王権の仕組みがひとつの起源からの派生系である!」 などと言ってしまうと、ホントかよ、と思われるのは当たり前だと思うし、記述の雑さやイギリスの人類学に先立っていたフランスの学者の業績を参照していないなどの難点が、生前からホカートの評価を下げていたと言う。1883年に生まれ、1939年に亡くなるのだが、1970年代以降に再評価されるようになったんだって。その評価軸は、勘の良い人であれば予想されるだろうけれど、構造主義人類学、ポストモダン人類学の先駆者としてホカートを捉えるものだったそうな。
本書のダイジェストとなっているのはヨーロッパの戴冠式と、フィジーの部族内における首長の即位式の比較分析だろうか。遠く離れた、まるで違っているもの同士の比較によって、比較されたものが共通に持っている機能があぶり出されもするし、もはや単なる風習・本来の意味が忘れ去られてしまった習慣へと、生の状態とでも言える意味を再び付与することにもなろう。フィジーの部族の即位式と、ヨーロッパの戴冠式では、王は一度死に、神として再生する。我々の目には、戴冠式はソフィスティケイトされた風習として映るけれど、それは象徴的な殺人と復活を意味する、野蛮でマジカルな儀式なのである。
「アレとコレの構造は一緒だ!」と言う指摘に大きな意味があるとは思えないし、構造が一緒だから起源も一緒だ、という論理は乱暴なものだと思う。ただ、こういう様々な事象を並置することでなにかを見せる手法というのは、個人的な好みからすると面白いテクストとして読める。井筒俊彦であったり、ベンヤミンであったり、アドルノであったり、または、ディディ=ユベルマンのアナクロニズムもそうだろう。
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