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《ゴルトベルク変奏曲》という音楽史上の特異点






 予想していた内容とは全然違っていた。小沼純一の著書の中では「あんまり…」という内容。《ゴルトベルク変奏曲》というバッハの作品を歴史的・楽理的「読み解く」という感じで、結構シンプル。普通のアナリーゼみたいなものにページを割いてるんだけれど、こういうのは別に小沼純一じゃなくても書けるよなー、と思ってしまった。





 本の内容とは関係ないのだけれど、私はこの《ゴルトベルク変奏曲》という作品を音楽史の中の特異点的存在なのではなかろーか、と思っている。この曲が書かれた経緯に関して「不眠症で悩んでいたカイザーリンク伯爵という人がバッハに『なんか聴いていて眠れるような曲書いてよ』と頼んで書いてもらい、伯爵が寝るときにゴルトベルクという人が弾いた」という逸話があるんだけれども、この逸話の真偽はさておき、音楽史のなかでそのような「実用的要請から作られた曲」ってあったんだろーか、と思うのである。




 「音楽は音楽そのものしか表現しない」というような絶対音楽な流れが生まれるまで、音楽というのは常に「何らかの添え物」としての意味合いが強かった。例えば宮廷舞踏のための音楽であったり、劇のための音楽であったり、また宗教の賛美歌であったり。《ゴルトベルク変奏曲》もまた「安眠のための音楽」ということができるけれど、先に例示した音楽が添えられた対象はすべて「非日常的なもの」であったのに対して、「安眠」というのは日常性が強い。舞踏、劇、宗教が現実的な生活から切り離されたところにあるのに、《ゴルトベルク変奏曲》は現実的な生活のコードに即して書かれているのである。『西洋音楽史』*1の中では、貴族たちの生活で食事中「雑音を消すために」音楽が演奏されていたという記述はあったけれど、そこで演奏された曲は必ずしも「雑音を消すため」に書かれていたとは言えない。





 《ゴルトベルク変奏曲》のように現実的な生活のコードに即して書かれた作品は、「チルアウト」というジャンルが文字通り「落ち着く」ための音楽として現れてくるまで存在しなかったのではないだろうか、と私は思う。「だからなんだ?」って言われたら「そう思っただけなんですよ」としか答えようが無いんだけれども…。しかし、《ゴルトベルク変奏曲》で私は眠れません。変奏の形だとか、分散的に置かれるトリルだとか耳で追うと興奮してしまうよ。



バッハ:ゴールドベルク変奏曲(1981年デジタル録音)
グールド(グレン) バッハ
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 高橋悠治やアンドラーシュ・シフの演奏も良いけれど、やはりグールドの演奏が好きだ。私はピアノという楽器が大嫌いだったのだけれど(デジタル的に設定された調律だとかに非人間的なものを感じていた)、この録音で目が覚めた。それから多分、200回は聴いている気がする。グールドのハミングを聴くと主旋律から急に内声を歌いはじめたりして面白い。あと強音を弾くときに、ハンマーで叩かれた弦の音がするのが気持ちよい。ピアノが弦楽器であることを意識させる演奏者はグールドぐらいしかいないんじゃなかろうか。





 ちなみにこの時期、グールドの使用していた楽器はYAMAHAだそうな。






コメント

  1. 僕もゴルドベルク変奏曲で寝られた記憶はありません。これからも一生グールドさんと共に眠れぬ夜を過ごします。

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  2. グールドの演奏したものであれば、『Plays Wagner』がオススメです。彼が唯一指揮をした録音の他《ジークフリート牧歌》、《マイスタージンガー》第一幕への前奏曲などのピアノ・トランスクリプションが入っています。これは眠れる。

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  3. あぁ、と、図書館で借りてましたそれ。今度眠れぬ夜に聴いてみます。

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  4. 私が選ぶ最高の入眠音楽と言えば黛敏郎の《涅槃》交響曲なのですけれどね。入眠というか入滅。黛先生と言えば「題名の無い音楽会」の司会を務めた立派な方ですが、仏のような笑顔の裏には極右思想が隠れてますからね。最強。武満徹死後十年とか言ってんじゃねぇぞ、オラ!

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