だましだまされ

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失われた時を求めて 10 第五篇 完訳版 (10)
マルセル・プルースト 鈴木道彦
集英社
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 シャルリュス男爵の企画によるヴェルデュラン家での音楽パーティの模様と、前巻からの引き続きアルベルチーヌとの同棲生活模様の二本立て、みたいな第10巻。音楽パーティでは故人のヴァントゥイユ*1という作曲家の七重奏曲(遺稿)が演奏され、そこで「私」(語り手)による音楽論が開陳されている部分が面白かった。ここで語られる音楽論は、ルーマンが『社会の芸術』で展開した「認知の方法」の話と重なって読める(それから一種の聴衆論としても)。「ある作品」がどのように認知され(聴かれ)、そしてどのように「理解される」のか。そして作曲家の「独創性」はどこに(どのように)存在するのか、というムズカシイ話が続くんだけど刺激的である。


 アルベルチーヌとの「かけひき」の場面は「うぇー!」と驚く箇所が沢山。嘘ばっかりついているアルベルチーヌを束縛し続ける「私」が、別れ話を持ち込むという大バクチに出るんだけど(これもこの巻の主要なシーンの1つである)、そこで「私」の役割が「物語内の登場人物としての『語り手』」と「物語を実際に書いている(メタ視点を持った)人物」とに分裂して現れて、時に物語の外部、つまり読者である我々に語りかける部分で結構引き込まれてしまった。こういった外部への語りかけは『失われた時を求めて』のなかで他にもいくつかあるんだけれど、この部分は一層「私」の役割が混濁したところにあって面白い。「私の書き方が悪いせいで、もしかしたら読者は誤解されているかもしれないが実は……」と言い訳的な語りが差し込まれるところは「小説のルール」を最高に逸脱しているような気がしてならない。


 「私」がアルベルチーヌを所有したくてたまらない(今、女性を《所有する》なんて言ったら、フェミニストによって公開処刑されかねない)ということは語られるんだけれど、「私」がアルベルチーヌを「愛している/していない」という判断ははっきりとできないような気がしてきて、読み手も「私-アルベルチーヌ間のかけひき」のなかに連れて行かれる感じがする。

 それからこの巻の姜尚中のエッセイ*2が面白かった。他の執筆者が「プルーストって素敵ですよね」的なヌルい感じを出しているのに対して、姜尚中のものはとにかく熱い。タイトルも「魂の越境」である。そこで語られるのは自己物語であり、取り扱われるのも「在日朝鮮人」の問題で、それを巻末エッセイで書くのはどうなんだろう、とか思うんだけど、ガチな感じがとても良い。『越境』という本を執筆中だそうなのだが、それが楽しみになってきた。




*1:想像上の人物である


*2:文庫版には様々な人のエッセイが巻末についてくる





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