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カルロス・フエンテス『遠い家族』





遠い家族
遠い家族
posted with amazlet on 07.02.19
カルロス・フエンテス Carlos Fuentes 堀内研二
現代企画室
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昨年がホルヘ・ルイス・ボルヘスの死後20周年であったり、新潮社からガブリエル・ガルシア=マルケスの全小説が刊行される予定が発表されたりとラテンアメリカ文学についての話題をよく目にするようになった(錯覚かもしれないけど)。現在、フランス現代思想の大著がバンバン文庫化されているように(その流れには急速な“90年代の総括”を感じる)、本当はこの辺の小説もバンバン文庫化されて欲しいものだなぁ、と思いながらメキシコのカルロス・フエンテスの『遠い家族』を読む。フエンテスは二冊目*1だが、今回もすごく面白かった。

 『老いぼれグリンゴ』のときは「ヘミングウェイのような力強い精緻な描写をする人だなぁ」と思っていたのだが『遠い家族』でのフエンテスは随分と印象が違う。無駄がない感じではなく、めちゃくちゃにテクニカルな小説作法が試みられているのである。

 小説は物語の語り手である「私」が、ブランリー公爵という友人を訪ね、。そこで「私」(のちにこの人物はフエンテス自身であることが明らかにされるのだが)はブランリーが経験したとても奇妙な体験を聞く……というところから小説がはじまる。よって、この小説の主要流れ(ブランリーの奇妙な体験)は「ブランリーが『私』に語ったことを『私』が語りなおしている」という視点から語られるのだが、その途中でブランリーから「私」がその奇妙な体験を聞いている瞬間の描写が差し込まれたり、または完全に語りが「私」の手を離れて一人称語りに入れ替わったりと、視点がとにかく慌しい。視点の移り変わりとともに時間軸も変化しており、そのあたりは対位法的のように読める。

 そういう複雑さを持っているだけあって、少し読みにくいところがあるかもしれないけれど、逆に「ああ、これは一行たりとも流して読めないな」という緊張を生みグイグイ引っ張られてしまった。それだけではなく、この技法はこの小説にとってバツグンに効いてくる「必要な技法」だったのだな、と読み終わってから思った。

 「思い出したものだけが記憶である」という言葉が何度か小説内には登場することからも分かるように、小説の重要なテーマのひとつとして「記憶」が扱われている。ブランリーが「私」に語る奇妙な体験もその記憶の1つであって、記憶を完璧な状態まで構築するまで聞き手でもある「私」までが苦心するのだけれど、何かがいつも取り残され、語りえないものとして残ってしまっている。それは最後まで物語の謎として取り扱われ、また最後に「私」へと取り付く亡霊の存在はそのような語り得なさの象徴として読むこともできるように思う。複視的な視点をもって「私=フエンテス」が記憶を完成させようとしても、それは不可能である。「語りえないもの」を取り残したまま、物語はふっと消失するようにして閉じられる――しかし同時に我々読者の前に小説が開かれるのだが。「小説はすべて未完であると同時に他の小説に隣接している」という文学論が小説内で語られているのだが、この小説自体がそのような存在であることを示したものであることも納得できるだろう。

 ルイス・ブニュエルへの言葉が小説が始まる前に書かれ、小説内でもブニュエルの映画への言及があるのだけれども、私はそんなに映画をみないのでこの辺のことはよく分からなかった。機会があったら観てみようかな、と思う。



*1老いぼれグリンゴを既に読んだ。感想はこちら




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