スキップしてメイン コンテンツに移動

ルイジ・ダッラピッコラ





ダッラピッコラ:とらわれ人
サロネン(エサ=ペッカ) ボリン(ペル) スウェーデン放送交響楽団 エリック・エリクソン室内合唱団 ブリン=ジェルソン(フィリス) ハスキン(ハワード) スウェーデン放送合唱団 ハイニネン(ヨルマ) アレクサンダーソン(スベン=エリク) ウェイディン(ラーゲ)
ソニーミュージックエンタテインメント (1998/03/21)
売り上げランキング: 1097





 20世紀イタリアの作曲家、ルイジ・ダッラピッコラというとイタリアで初めて12音音楽を用いて作曲をおこない、それから歌劇《囚われ人の歌》によってムッソリーニに対する反ファシズム的な声をあげたことが知られております。生没年は1904年から1975年、ドミトリ・ショスタコーヴィチとほぼ同時代人。ショスタコーヴィチもまた、イデオロギーに対しての反抗を作品のなかに「隠した」ことで知られており、両者を並べてみると20世紀の音楽史に名を刻むということにおいてどれだけイデオロギーが重要な点であるのか、ということを私は考えます。もっともこの両者は、シェーンベルクやブーレーズのように音楽自体に「新しい音楽秩序の確立」というイデオロギーが含まれているわけではなく、ショスタコーヴィチと《囚われ人の歌》には「反-イデオロギー」という点で共通点をある、と言えるのですが。

 さて、ここまでダッラピッコラという作曲家をまるで「イタリアの現代音楽界の最も重要な人物である」かのように語ってまいりましたが、音楽をめぐる様々な批評的文章を顧みますと「現代イタリア音楽の盲点」の一つというのが実際のところではないでしょうか。1950年のダルムシュタット夏季現代音楽講習会において、カールハインツ・シュトックハウゼン、ピエール・ブーレーズらと共に第二次世界大戦以降の楽壇のスター的存在に躍り出たルイジ・ノーノや、多彩な音楽語法と斬新な視点によってトータル・セリエリスムとは一風違った位置を確立したルチアーノ・ベリオと比べてしまうと、2人の一世代前に生まれたダッラピッコラはいかんせん地味な存在です。同時代人であるジャチント・シェルシでさえもスペクトル楽派の先駆者として語られることが多いというのに!



ダッラピッコラ:パガニーニ奇想曲によるソナティナ・カノニカ
ブロッセダ
アイヴィー (2005/11/01)
売り上げランキング: 19222



 反ムッソリーニの「問題作」である歌劇《囚われ人の歌》が素晴らしい作品であることは私も感じるところです(それとその後に書かれた《囚われ人》という作品も素晴らしい。12音音楽とグレゴリオ聖歌の融合が試みられています)。しかし、誤解して欲しくないのは、彼が生涯を通じてそのように「スキャンダラスな作品」を書いていたわけではない、ということ――この点がダッラピッコラの「地味さ」の要因でもあるのです。

 ナクソスから発売されている彼の「ヴァイオリンとピアノ&ピアノのための作品全集」を聴いてみると、ダッラピッコラが実に「美しい作品を書く実直な作曲家」であったということがわかります(それが地味に捉えられてしまうのは、モダニティの宿命、といったところでしょうか)。特に聴いて欲しいのは《アンナリベラの音楽帳》(1952年)という作品。B♭-A-C-B(B-A-C-H)というバッハのイニシャルをモチーフとして使用した「シンボル」から始まるこの作品は、厳格な書法をもって様々に変奏されてゆきます。一つ一つは短く、音数もそれほど多くないところに抑制された美しさがあり、生まれる響きは非常に独特である。そこにはヴェーベルンの影響を感じさせながらも、《フーガの技法》の20世紀的変奏という代名詞が浮かんでくる名作だと思います。バッハへのオマージュを含む作品は数あれど、そのなかでも素晴らしい部類に入る。

 また《インニ》(1935年)というピアノ作品も興味深い。ベースラインの動きや厳格な対位法も素晴らしいのですが、やはりここにもヴェーベルンの影を非常に強く感じます。《インニ》は3楽章構成の作品ですが、この曲の第3楽章で聴くことの出来る「小さなモチーフ」の変奏と対位法には「樹の枝状の発展形式」がみえる。響きは協和的で、坂本龍一がパクっててもおかしくない感じ。

 「ダッラピッコラは、もっと聴かれるべき!」と大声で言いたいがためにエントリーを書きました。




コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か