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世代論から人種論へ



「仁丹」或いは世代の条件 - Living, Loving, Thinking


 メディア技術の変化によって「○○世代」というようにコーホートを語ることの意味がもはや失効していることを示した、簡潔でとても勉強になるエントリ。「世代論が無意味」というのは以前にもどこかで目にした言葉だったけれども、このエントリですごく納得ができてしまった。一回性の「出来事」が、いつでも参照できるようなデータベース的にされることによって生まれるのは「教養の格差」である、と(エントリ内で何故か私が事例として挙げられてるんだけど『師匠!』などと呼ばれたことは一度もありません)。最近雑誌に目を通していると「団塊の世代向けの商品特集」記事がよく組まれているけれども、もう少ししたらきっと「世代」によるマーケティングのセグメンテーションなんていうのも全然意味なくなっているんだろうなぁ、などと思う(自分にはあんまり関係ないけども)。


 「世代論に代わるものは何か」と問うた時、ポッと思い浮かんだのは「人種論」。というかもうこれはそのように語られているように思う。「オタク」とか「サブカル」とか、そういうの。たぶんインターネット以前の社会なら、そういう「人種」分けをしてもある程度の地域差は生じていたと思う(全然、別な話かもしれないけど宮城県には『(ごく狭義での)渋谷系』はいなかったわけだし)。しかし、「直接現場にいなくても、同時的に共有することができる」ことが可能になった今だからこそ、そういった「人種」が手に入れることができるアイテムは地域差がなく均等に割り振られることとなる。言い換えると、それまで地域差が存在していたはずの「人種」が均質化されてしまっている、ということになる(たぶん。これもグローバル化なんでしょうか。ギデンズ!)。「オタク」とか「サブカル」とか人種によってわけられたセグメントはそれぞれ小さいんだけど、範囲として広く捉えることができる気がする。





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