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シャイーと(マーラーの)シューマン




シューマン(マーラー編):交響曲第2番&第4番
シャイー
ユニバーサルクラシック (2007/03/21)



 リッカルド・シャイーとゲヴァントハウス管弦楽団のシューマンの交響曲第2番と第4番。「シューマンを演奏することにおいて、指揮者はそれぞれのエディションを持たなくてはいけない」という言葉を残したのはフルトヴェングラーでしたが、これは彼が「シューマンのオーケストレーションのヘタさ」を指揮者が上手いこと解決しなくてはいけない、ということを指示したもの。その言葉が影響しているかどうかは分からないけれど、以前にもコンセルトヘボウ管でシューマンの交響曲全集を完成させているシャイーが今回選んだのはマーラーの編曲版です。原点版での演奏では近年、ダニエル・バレンボイムの全集が素晴らしい出来でしたが、それと比較すると細部の音形などに違いが見られる模様(でも響きの違いとかは私にはよくわからない)。


 さて、版の問題というオタクだけが喜びそうな薀蓄ではなく演奏の話に移ろうかと思うのですが、これが素晴らしい。普段は過去の名盤なんかを適当に買い集めているけれども、このように年に何枚かは食指が動く「新譜」が出てきてくれることはとても嬉しいことです。シャイーの選択するテンポは速めですが、それがすっきりとした音楽の見通しの良さを生み出しており(また、各楽器のヴォリューム・バランスもすごく『適度』)、金管楽器のフォルテッシモも音色が透き通っていて美しく好印象。


 今後、マーラーの編曲版での全集をシャイーが完成させるとするならば、期待が持てると思います。楽しみです。どうでも良いんですけど、シューマンのCDっていつのまにか増えてるんだよな……(特に好きなわけでもないのに)。





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