スキップしてメイン コンテンツに移動

ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』(後篇3)




ドン・キホーテ〈後篇3〉 (岩波文庫)
セルバンテス Miguel De Cervantes 牛島 信明
岩波書店 (2001/03)
売り上げランキング: 15633



 ちょうど一ヶ月ぐらいかかって全6巻、読み終えました!「買った本は基本的に全部読む(貧乏性)」であるので、後篇に入って飽きてきたときはどうしようかと思いましたが、意地で読みました。後篇に入ると「お、コイツが噂の狂人ドン・キホーテか!どれ、いっちょワスもからかってやるべか」という輩ばっかりでてきて、ドン・キホーテがまんまとそこにハマっていく、というのが展開がミニマルに繰り返されるので、結構キツいのかも……とか思います――この反復感はまるでテクノだ!(嘘)



D



D


 あとAC/DCもよく聴くと、テクノ(嘘)。無理を承知で話を進めると、『ドン・キホーテ』とAC/DCには、極度な単調な展開が繰り返されているにも関わらず、ちゃんと作品として成立させている……という共通項があります。それを可能にした技術が、前者であればセルバンテスが巧妙に仕組んだメタ構造(後篇では『ドン・キホーテ』の偽作の話も導入され、さらに複雑に!)と風刺にあるのでしょうし、後者であればアンガス・ヤングのギターにあるのでしょう……。


 関係ないけど、アンガス・ヤングがどうして短パン・ランドセルDEツノというコスチュームを頑なに守り続けているのか(その格好が何を意味しているのか)、ご存知の方は連絡願います。いままでなんとなく普通に受け止めてきたけど、昨日ぐらいから「そういえばなんで短パン・ランドセル・ツノなんだ……?」って思ってしまってすごく気になってます。全くもって意図不明だよ……。


 話は『ドン・キホーテ』に戻りますが「後篇3」には、ドン・キホーテの狂気の具合がどんどん勢いを弱めていき、「正常」な状態へと回帰していくまでの過程が描かれていて、その模様が結構切ないです。あと、意地悪な貴族に担がれて、島の領主にしたてあげられたサンチョが、その地位から追い出される場面とか結構グッと来る(この部分、サンチョが大事にしてきた灰毛の驢馬をひしと抱きしめながら涙を流してる挿絵がついて、それも良いです)。ホントに、ドン・キホーテとサンチョの騙され具合がひどくて、「善意を抱いた狂気」と「悪意を抱いた正気」のせめぎあいのなかで、果たして「正しさ」とはなんなのか、みたいなところを問いたくなる。


 飽きたとかいいつつも面白く読めてしまったので、時間がある人にはオススメです。教訓とか道徳とかなんにもないけど(でも、小説に教訓を求めるってかなり守銭奴みたいな態度だよなぁ)。





コメント

  1. ホント、これは洗練されてますよね。「ブルース風のリフの反復」であれば、ツェッペリンなのでしょうが、AC/DCにはそこから過剰性を取り除いて、シンプルにガッチリと構築されてる感じがあります(パンクの時代を生き残れたのも分かる気が)。

    返信削除
  2. AC/DC!! \m/ ←メロイックサイン
    サンダーストラック、自分も同じ事を考えてました!ビートとか完全に四つ打ちだし!こういう洗練の極みみたいな曲が「直流交流どっちもイケるぜ」っていうオージーの荒くれ者どもから発せられている事実が非常に興味深いですね。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」