スキップしてメイン コンテンツに移動

アフィニス文化財団が太っ腹すぎる件について



財団法人 アフィニス文化財団


 先日調べものをしていて、アフィニス文化財団という団体が存在していることを知りました。この団体は、1985年にJTがポンとお金を出したことによって設立されており、日本のオーケストラの支援活動を主な活動としているそうです。コンサートの企画や、若手演奏会育成のための講習会を開催するなど現在も活動が活発に行われている模様。こういうメセナ活動って景気の動向に左右されがちですが、立派に続けられているのがすごい。まぁ、親元がJTなんで……っていうのがあるんでしょうが。


アフィニス・サウンド・レポート


 また、この団体「アフィニス・サウンド・レポート」という“音による機関誌(CD)”を定期的に発表してもいるようです。このCDがなんと無料!「ホントかよ……良いのかよ……」と半信半疑でプレゼントに応募してみましたが、ホントに無料で届きました。第34号は『日本戦後音楽史』の特集なんですが、収録作品のほぼ全てが初CD化、という感じの超貴重な内容です。以下に収録曲のリストを掲載しますが音源が貴重すぎて、おそらく聴いたことがある人、ほぼいないと思います。



鈴木博義《モノクロームとポリクローム》(1954年)


篠原眞《ソリチュード》(1961年)


黛敏郎《音楽の誕生》(1964年)


福島和夫《月魄 -つきしろ- ピアノ、ハープ、52の弦楽器と打楽器のための》(1965年)


夏田鐘甲《管弦楽のための音楽『伽藍』》(1965年)



 「黛敏郎以外ハードコア(マニアック)過ぎて名前すら聞いたことがない……」という反応が、インターネット越しにうかがい知れるようなラインナップ。自分の業績でもないのに「どうだ!」と見せびらかしたくなります。ちなみに鈴木博義・福島和夫は「実験工房」のメンバー。


 演奏は高関健/東京都交響楽団。音源は都響の「日本の戦後音楽研究」というコンサート・シリーズからのライヴで、その第1回(2003年)・第2回(2004年)のプログラムから選曲されています。ちょっと自分でもびっくりしたのですが、この演奏会どっちも生で聴いてました。第1回は黛の大作《音楽の誕生》の印象が強かったのですが、第2回はあんまり覚えてない……大井浩明さんがピアノの内部奏法をやってた姿と、池袋の東京芸術劇場大ホールが6割ぐらいしか埋まってない情景しか思い出せません。


 さきほど聴きかえして、やはり黛の《音楽の誕生》のスケールの大きさが群を抜いて素晴らしく、改めて感激いたしました。この作品は新古典主義的な作風のものではなく、トーンクラスターや微分音、あるいは管楽器のキーを動かす音などの非楽音的ノイズの導入など意欲的に新しい手法を取り込んでおり、なかなか「難解な音楽だ……」という雰囲気をかもし出しているのですが、印象的なメロディや明快なリズムといった「具体的な語り」とは一切結びつかない語法を多く用いつつ、音楽が誕生するまでの歴史を強い説得力をもって描いてしまった傑作です。黛は、やはり「黛先生」とお呼びしたくなるような感じがします。さすが題名のない音楽会!さしずめ、《音楽の誕生》は「旋律のない交響詩」といったところでしょうか。


 ちなみにこのCD、夏田作品以外、ほとんど印象的なメロディがでてきません。近年、ナクソスが邦人作曲家シリーズを続けておりますが、かのレーベルにはこのような硬派なラインナップは不可能だったでしょう。邦人作曲家、というと(特別な存在である武満を除いては)伊福部昭や芥川也寸志をはじめとする「ロシア・ソ連系の作曲家の影響が色濃い人たち」が有名であり、その関係からかその「わかりやすい方面」の作曲家と「わかりにくい方面」の作曲家の間に、知名度の不均衡が生じているように思うのですが(早坂文雄とか、別にねぇ……うーん…まぁ、好きだけど……そこまで……)、このCDはそのような状況で上手くバランスをとってくれるような内容であると思います。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」