叢書 20世紀の芸術と文学 ショスタコーヴィチ ある生涯[改訂新版] ローレル (叢書・20世紀の芸術と文学)posted with amazlet on 07.12.09ローレル・E. ファーイ 藤岡 啓介; 佐々木 千恵
アルファベータ (2005/03/23)
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井上道義指揮/新日本フィルハーモニー交響楽団によるドミトリ・ショスタコーヴィチの交響曲第8番と第15番を聴きに行った。「一ヶ月の間にショスタコーヴィチの交響曲を全曲演奏してしまおう!」という井上道義のようなお祭り男タイプの指揮者でないと絶対引き受けないであろう大イベントの千秋楽。築79年の日比谷公会堂がほぼ満席になる大盛況ぶりで、とても良い演奏会だったと思う。休憩の後に、井上道義と黒柳徹子のトークがあったり(おそらく楽団員の休憩を長くするためだろう)、会場で満面の笑みの志位和夫を見かけたりと大満足である。『徹子の部屋』と『世界ふしぎ発見』意外で黒柳徹子の姿を見るのは初めてだったのだが、オシャレ過ぎてヤバかったのと、語り口がまるでモンタージュ技法だったのが面白かった。
井上道義の発言では「このホール、今日来ていただいた方々には分かると思いますが、とても個性的な音がするホールです」というようなことを言っていたのが興味深い。私もオーケストラのリハーサルで一度この会場を使ったことがあったから知っていたのだが、日比谷公会堂というのは、とにかく残響はゼロに近い所謂「音響がデッドなホール」である(というか、そもそも「音楽ホール」として設計されていたわけではない)。一般的に言ったらこれは「良いホールではない」ということになる。しかし、面白いのは「席によって極端に音が違って異なる」ということだ。「二階席に座ると、全部の楽器がすぐ近くで演奏してるような風に聴こえるし、もっと後ろの方に座るとまた全然違う音になって聴こえる」。そこから井上道義は「演奏しているのは一つの音楽なのに、聴衆には聴こえる音楽はそれぞれで違っている。では真実の音とはなんなのだろう?」と考えたのだそう――こういう複数の聴衆を意識している指揮者は極めて稀な気がする(普通、指揮者はホールの一番良い席で一番良い音が聴こえるように音楽を設計するだろうから。ちなみに私の席からは、なぜか目の前でチューバを吹いてもらってるような細かい息遣いまで聴こえた)。
演奏の方は「祭りだから、ガンガン盛り上げて、煽って、熱演にしてやろう!」という雰囲気は一切無く、とても細部への配慮が行き届いたものだった。弦楽器の細かいダイナミクスのつけ方が特に繊細で、何度もドキリとさせられる(管楽器のソリストはかなり自由に吹いていたような感じ)。交響曲第8番を昔フェドセーエフの指揮で聴いたことがあったけれど、フェドセーエフが「爆演」を聴かせてくれたのに対して、井上道義の指揮は職人的な精巧さみたいなものを感じた。ただ、さすがに第15番は一時間を越える第8番の後であっては、やや散漫な演奏に聴こえてしまった。もっともこれは、聴いている自分のの集中力がだいぶ磨り減っていたせいもあるのかもしれないけれど。
(ショスタコーヴィチ写真集。音楽は交響曲第8番の第3楽章。演奏は1973年のムラヴィンスキー/レニングラード・フィルのものだろうか)
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