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テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第2回講義メモ)




否定弁証法講義
否定弁証法講義
posted with amazlet on 08.01.03
アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
売り上げランキング: 17030



 引き続き、第2回講義メモ。第2回は第1回でおこなった話が「いや、そんなんヘーゲルも言ってるし、わざわざ否定弁証法って言い直す必要なくね?弁証法でよくね?アドルノいらなくね?」みたいな風に思われるかもしれないので「なぜ、否定弁証法なのか」という説明をおこなっている。




 肯定弁証法――ヘーゲルの単なる弁証法を否定弁証法との違いを意識して呼びなおすならば、そう呼びなおすことができるだろう。「否定の否定は肯定、公的的なもの、是認的なものである、ということ」はヘーゲル哲学の根底に存在している想定の一つである(P.28)。この思考過程はヘーゲルがおこなった「抽象的な主観性への批判」にわかりやすくあらわれている、とアドルノは言う。「たんなる対自存在としての主観性、つまり批判的に考える、抽象的で否定的な主観性――ここに否定性の概念が本質的に登場するのですが――が自分自身を否定し、自分自身の制限されたあり方を自覚しなければならない」。「自らの否定によって得られる肯定性(実定性)において、つまり社会や国家、客観的な精神、最終的には絶対的な精神の諸制度において、そのような主観性は自己自身を止揚する」(P.29)。我々の主観的な意識とは、それ自体ではなんら規定のされることのない抽象的な存在にすぎない(抽象的な主観性)。そして、それは自らに批判的な/否定的な存在である、社会的な客観性(他者、社会)、あるいは客観的な意識を通じてはじめて、実定的なものとなる。そうであるがゆえに、ヘーゲルは制度なるものを正当化している。「制度は不可欠であるということ、しかも主体がそもそも自己保存を行うためにも不可欠である」(P.31)。


 しかし、この点こそがヘーゲルに対する批判的考察が開始されるべき地点である。そしてその批判的考察が否定弁証法として始められるのだ、とアドルノは言う。アドルノのヘーゲルに対する批判は「否定の否定は肯定性に帰結するのではありません」(P.33)というところからはじまり、「肯定そのものをそれ自体で価値へと高めるのではなく、まさしく、何が肯定されているのか、何が肯定されるべきで何がこうていされてはなないのかが、問われねばならない」(P.36)というところに辿り着く。ヘーゲルにおいては「否定の否定による肯定」が単純に物神化されている。肯定的なものという概念自体が含んだ、「実定性(所与のもの、鼎立されているもの、現に存在するもの)」と「肯定性(肯定に値するもの、よいもの、ある意味で理念的なもの)」という二重性が充分に吟味されていないのである。


 肯定的なものとして現れるこのものは本質的に否定的なもの、すなわち批判されるべきものである――このような否定弁証法の態度を、アドルノはアウシュヴィッツ以降の哲学として想定している。そこでは「現実的なものは理性的である、すなわち存在するものには意味がある、という肯定的な想定は、もはや不可能」(P.37)だ。否定弁証法的な態度をもってでしか、我々は現実と出会えないのだ。





コメント

  1. 互いに共通の一つの特徴が抽出される、としたアドルノの概念を形成することに関する言及は自己の存在を無視している。概念は何らかの一連の特徴や一連の要素から自動的に決まってしまうような代物ではなく、それは必ず自己を通して解釈されるものです。概念を作るのは人間である。人間は概念を規程するにあたり、その通過点(現在。と云うべきでしょうか。)に不可避だったいくつかの事象から、意識的無意識的に関わらず選択した自己をもってして規程するものである。自己を通さない概念など存在しない。そんなものを存在すると認めることは、概念というファクターが個人の価値基準を完全に離れて存在できることを認めることに繋がる。それでどのようなことが起こるかというと、概念を元になにかを云う際に、その概念が万人共通のものであるとされるという状況が起こる。そのような状況を肯定してから貴殿のエントリーを読む場合、それは受け入れられる。概念の入れ子要素のBが概念であるAと違うという問題の中でだけ社会が進んでいかざるを得ない。そういうふうに読むことができる。しかしそれは、間違えである。なぜなら繰り返すが、概念は人間に属するからである。したがってAは一個でなく複数である。それぞれのAがそれぞれの性質を持っているから。A=Bのイコールは、個人の概念においてイコールであれば、それを認める必要がある。それを認めないことは、自己の否定に繋がる。概念はそれぞれの自己の主要素であり、現在社会は、その多様性を認めなければならない。現在社会がそれが抱える矛盾を通じて「こそ」生き延びているとするのは、だから乱暴な言説であると言わざるをえない。矛盾の前にある矛盾ならざるものを口にできなくなるままに生き延びているとするのは間違い。そうではない方向に社会を持っていこうとする運動がきちんと存在する。それは矛盾にならない自己の肯定である。この肯定を否定の否定とするのは間違い。それは否定の否定ではなく、否定を避けた自立である。人はアドルノが乱暴に引っ張る概念の平面に降りる必要がない。それを強要することは乱暴、非人間的、かつ不愉快な、自己への侮辱である。否定の否定、この二度目の否定は”一般的な概念”の上にしか成り立たない。そんなものは自由な自己にとっては不必要な嘘である。と、思いました。あくまで読者の一意見としてお読みいただけたら幸甚です。

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  2. 「あくまで読者の位置意見」として読ませていただきましたが、「???」という感じで正直どのようなコメントをお返しすれば良いかわかりません……。なんかそれっぽいことが書いてあるような雰囲気がするので、もうすこし伝達可能な言葉と補足を入れて説明していただけると嬉しいのですが(今のままでは、アドルノのどの部分を『嘘だ』と批判しているのかもよくわかりません)、tenderinthenight(夜はやさし?)さんがアドルノに対してまるで見当違いな批判を展開されているように思ってしまいました(現時点では。そして、そのような見当違いな批判を展開させてしまった責任は、私にもあるのでしょう……)。

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  3. 「したがってAは一個でなく複数である。それぞれのAがそれぞれの性質を持っているから。」……この文章以降がとくによくわかりません……。そもそも冒頭の「互いに共通の一つの特徴が抽出される、としたアドルノの概念を形成することに関する言及は自己の存在を無視している」というコメントからして、ただ単にそこに書いてないことを「無視している!」と批判するような無茶苦茶さを感じてしまうのですけれど。喩えるなら「私は日本人だ」といってる人に対して「俺も日本人だ!無視するな、この野郎!」と殴りかかってくるような(あんまり良い喩えではないかもしれません)。
    Aさんが抱いた概念「A」とBさんが抱いた概念「A」は、異なっている(それぞれのAがそれぞれの性質を持っているから)。また、そうであるがゆえに「A」は単一のものでなく複数である――にも関わらず、AさんとBさんが抱いた概念「A」は同じものとして伝達されている。それぞれの間で「異なったA」があるのにもかかわらず、実際には「同じA」となってしまっているところに矛盾が存在する……。
    以上、tenderisthenightさんの言葉を私なりに解釈しながら、アドルノの言う「概念における矛盾」を他者の問題も介しつつ説明しなおしてみましたがどうでしょうか……。

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  4. 夜遅くに丁寧なご返信を二通もありがとうございました。
    私はあまり構築的な論理というものが苦手であくまで観念的にアドルノを悪いものだと考えてから書き始めました。実際に本に触れたわけでもなく、このブログを見ていたというだけです。ですから漠然としたコメントになったと自覚しております。
    A=BのAは常に個人的なものである。
    例を挙げて書いてみます。
    木 tree という概念があります。
    お察しの通りtenderisthenightはフィッツジェラルドの本で、私はフィッツジェラルドの本の中に、たとえばtreeなんか出てきたりすると、そのフィッツジェラルドが抱いたtreeという感覚、彼が見て感じるtreeの根源は、彼の中にしかない固有のものであると感じます。彼が感じたtreeは、彼が感じたtreeでしかない。そして彼がtreeそのもの(B)をtree(A)であると概念するときに、そこには矛盾が生じます。そして彼はその矛盾の中でのみ生きようとする。しかし矛盾は社会に向かって放たれるのではなく、自己に向かって放たれる矛盾である。それは人の心根であり、固有の性質であるから、批判されるべきものではない。
    しかしここで一般的なtree(A)を認めてしまうと、途端にフィッツジェラルド固有のtree(A)は社会に向けて放たれ、その社会的で一般的なtree(A)との矛盾によってのみ認められることになってしまう。「矛盾の中でしか我々は生きられない」とアドルノが云ったのは、一般的なtree(A)を認めたうえでの言及なのではないかと僕は思っていました。つまり「一般的なAと固有のAの矛盾の中だけでしか生きられない」と。そうだとしたら、アドルノは断固、間違いだろう。という場所から書き始めたのが先ほどのコメントです。そうではなくて、「一般のAなど存在しないのだから、固有のAだけで人は生きることができる。」ということを書きたかったわけです。アドルノは、A=Bの矛盾を言い、Aを否定的に捉える為に、一度わざわざ在りもしない一般のAを持ち出したのではないかと。そうすることで、アドルノは、無理やりに固有のAと一般のAの矛盾を言い、固有のAを否定的に捉えている。本当のところは、一般のAなど、アドルノが無い場所から持ち出した勝手な概念(先のコメントでは”概念の平面”と書きました。)に過ぎないのに・・・。
    ”一般のA”は時代的なものであったり社会的なものであったりするのかもしれません。アウシュヴィッツ以降、”一般の”は変容し、”固有の”に働きかける。
    しかし、そういった考え方は間違っているのではないか。”一般の”をいちど立ち上げてしまったことがアドルノの間違いであり、そうすることで”固有の”を批判することに何の意味があるのだろう・・・。
    正直なところを申し上げますと、書いている傍から勉強不足を思います。書きながら、ひょっとしたらぜんぶ読み違いかしらという猜疑も抱くようになってきました。丁寧なご対応に感謝いたします。

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  5. なるほど、よくわかりました。が、なぜそこまで「一般的なA」――これはゼマンティークと言いかえる可能でしょうか(アドルノからは少し離れますが)――を否定なさるのかがよくわかりません。
    確かに世界には「個人的なA」しか存在しない。それが集合的に扱われることによって「一般的なA」が形成されたりもしない。あくまで「個人的なA」は「個人的なA」です。しかし、にも関わらず「A」は他者と「同じもの」であるかのように交通が可能である(矛盾は勝手に解消してしまう)。この限りにおいて「一般的なA」は存在している(本当は存在していないんだけど、存在してしまう)……ということが言えると思いますが……そして、アドルノがこんな説明をしたわけではないけれど、でも似たようなことを言ってると思う。
    単に「一般的なもの」、「社会的なもの」をどこに設定するか、どこに認めるかの問題かもしれません。私は社会学の人なんで(そしてアドルノも社会学として読んでるので)、以上の理由から「社会は存在する」としてしまいます――「異なるA同士が交通可能な状況」を単に「社会」と呼んでるだけ、とも言えますけれど。

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  6. あと「アドルノが『固有のA』を否定している」とおっしゃる点は甚だしい誤読であると言わざるを得ません。これは私の書き方が悪いのだと思いますが、むしろアドルノほど「固有のA」にとどまった人はいない、っていうのは「一般的に」認められた評価です(手前味噌ですが、拙ブログのアドルノに関連する過去ログをご参照ください。今読むと『痛い点』がいくつかありますが、そこまでトンデモな解釈はされていない……ような気がします)。
    また先ほどのコメントにつけ加えるならば、夜はやさしさんとフィッツジェラルドとの間で「木」という概念が矛盾しつつも交通している点で、私が「社会」と呼ぶところのものが夜はやさしさんにも認められるように思います。この矛盾しつつ行われるコミュニケーションが、「個人的なAの否定である」と夜はやさしさんは言われるのかもしれませんが、私はそうは言わないし、アドルノも言わない。

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  7. 数回読み、自分の誤解のようなものも判りました。はじめよりも違和感が薄まったように思います。まだ蟠りのようなものも残っているので、ここから先は自分で考えてみます。どうも、長々と、ありがとうございました。

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