テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第3回講義メモ)

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否定弁証法講義
否定弁証法講義
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アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
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 引き続き、第3回講義メモ。ここでは「思考の物神化への批判」、「否定弁証法は可能か」といったことが語られている。




 否定弁証法の中心には、文字通り「否定」が存在する。しかし、ここで気をつけなくてはならないのは、我々が「否定的なもの」を扱うとき、「否定的なものが存在する」という形で扱ってはいけない、ということである、とアドルノは言う。「否定的」という概念は、「本質的に関係概念であって、それ自体で妥当するのではまったくなく、そのつど是認もしくは否定されるべきものとつねに関わって」(P.45)いる。つまり、否定的なものは、本来自立的な概念ではなく、つねに「否定的なものではないもの」との関わり合いにおいて認識されうるものなのである。にも関わらず、概念は「それに意味を与えている諸関係から引き離され」(同)、自立的な概念として扱われてしまう。我々が否定弁証法を用いて抗わなくてはならないのは、この思考の物神化なのだ。よって、否定弁証法もまた絶対化を拒む態度として現れる。そこでは「絶え間ない自己反省を責務」(P.49)としなければならない。


 しかし、「外野からはこんな主張もやって来ます。あいつが否定的な原理を自分のものにしているか、あるいは否定性を本質的な媒体と見なしているなら、そもそも何も口にしてはならないのだ、と」(同)。否定性を自分にも向けるならば、そもそも発言などおこなえないはずなのだ、と。これに対してアドルノは「思考の契機」として限定的否定(たとえ絶対的な始まりなどまったくしんじていなくとも、とにかく何かで始めなければならないがゆえに最初に設定した否定性【P.47】)を設定する。


 だが、弁証法的論理学において、否定性と同時に肯定性もまた一つの契機となりうる。そのうちアドルノが否定性を強調する理由についてはここでは触れられていない。彼は手ごろな答えとして以下のように語っている。「私はいわば素朴な民衆のひとりとして、世の中に肯定性がひたすら溢れかえっていることを知っています。そして、こんなに溢れていると、この肯定性それ自体が否定的なものとして示されることになります。この否定的なものに対してはやはりまずもって、まさしく否定弁証法という概念で特徴づけられる態度を取ることがふさわしいのです」(P.51)。


 しかし、これはヘーゲルとは異なった点だ、とアドルノは言う。「結局のところ、あらゆる否定の総括である全体は肯定的なものであって、意味、理性である」(同)と語るヘーゲルにおいては「肯定性それ自体が否定的なものとして示され」ていてもまったく問題にはならない。「たとえ自分にきわめて敵対的な概念であっても、嫌々でも自分の中に取り込んで働かせることができない概念など何一つない」(P.52)豊かな哲学としてアドルノはヘーゲルを評価する。しかし、ヘーゲルの「分析的判断でありかつ総合的判断である」という主張については乗り越えてゆかれるべき点である、とも言っている(この箇所、よく意味が汲み取れない……)。


 ここまでの流れから「否定弁証法はそもそも可能なのか」という問いをアドルノは提示する。また、この問いは、「否定の規定性(限定性)はどこに由来しているのか」という問いにつながっている。これについての「方法的な原則の一つ」は、<偽ナルモノハソレ自身ト真ナルモノノ指標デアル>(P.54。スピノザの命題の逆)。あるものに対して否定的なものは、あるものが「あるものだ」と主張している当のものではない、という意味において自らの否定性を示している。ここに否定の規定性が存在している(この箇所も、よくわからん……)。


 第三回講義の最後では、ヘーゲルの「綜合」についての註釈がおこなわれている。綜合という概念についての誤解に満ちた解釈への批判。また、次回講義を先取りする形で「体系無き弁証法、体系なき哲学の可能性」にも触れられている。





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