テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第7回講義メモ)

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否定弁証法講義
否定弁証法講義
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アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
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 引き続き、第7回講義。題目は「脱出の試み」。導入部にしつこくハイデガー批判。ここで言われている「脱出」とは、「素朴な哲学からの脱出」だと言って良いと思う(それをアドルノは哲学の課題として課していることはここまでに何度も繰り返しでてきた)。この回ではそこからベルクソン、そしてフッサールによってなされた「脱出の試み」を検討しつつ、新たな戦略をさぐっている。かなり内容が濃い。以下、いつものように講義メモ。




 ハイデガーの擬古的な性格。ハイデガーを代表とする存在論の二つの問題、これには純粋な形式主義に退化する傾向、それから偶然的な内容をもった命題に退化する傾向の2つがあげられている。ハイデガーの哲学は、「まさに自分は形式的なものではないという主張を掲げつつ、にもかかわらず、自らをもっとも上位の、もっとも中傷的なカテゴリーへと収縮させねばなりません」(P.117)。そこではすでに具体的なものという理念が念頭に置かれていて、「状況は、自らの歴史性をつうじて、かくかくであって別様ではなかったという一種のアウラを帯びており」(同)、すでに確定されたものとして扱われている。移ろいゆく性質を存在の性質として認めることによって、存在が確定される(移ろいゆく性質が失われる)という逆説。


 否定的弁証法は、このような立場をとらない。アドルノの関心は「概念を欠いたもの」にある。「ある規定されたもの――概念を欠いたものと言ってもいいですが――から私たちに何が立ち現れてくるか、すなわち概念がそこから何を取り出してくるかを、そのような概念を欠いた不透明な何かのうちに最初から見て取ることはできない」(P.120。この箇所、否定的弁証法がますます脱 構 築めいて読めてくる箇所である。同じような印象を与える箇所がこの回には頻出)。もちろん概念を欠いたものもまたひとつの概念である。この概念を欠いたものという概念は、概念によって媒介される前の、概念によって媒介された瞬間にこぼれおちてしまうものを持ったものを含んだ「何か」を指し示している。何がこぼれおちるのか、それもまた事後的にしか認めることができないものだが、そこでこぼれおちた極小のものにこそ、哲学的解釈を必要としているのだ。


 このような態度は、ベルクソンとフッサールのふたりにもみられたことである。ベルクソン→イメージ論。フッサール→本質的なもの/直観。しかし、「二つの偉大な試み」(P.126)は失敗した。両者はともに観念論的だった。ベルクソンにおいては、結局単純な二元論的性格を保持されていたこと、フッサールにおいては、その仕事が結局「古きよき分類的論理学」(同)と変わっていなかったこと、これらが失敗の原因である。「本質的なものの客観性と称されるものへ、あるいは超主観的と称されつつも主観のなかに何らかの形で設定されているあのイメージの世界へ、身を投じても無駄だ」(P.127)。これがベルクソンとフッサールからアドルノが導き出した結論である。


 しかし、脱出の課題をあきらめるわけにはいかない。また、ベルクソンとフッサールの失敗をみたとしても「脱出は可能なのだ」という信頼を捨ててはならない(そうでなければ、哲学はまったく不可能になってしまう)。否定弁証法もまた、脱出へのユートピア的信頼を保持したまま思考される。しかし、これは「概念を欠いたものを概念をもたない何らかの高次の方法と称されるものによって捉えることでは決してな」い(P.129)。むしろそこでは「概念を欠いたものを概念を媒介として、さまざまな概念の自己批判を媒介として開示すること」が目指される(同)。


 あらゆるものを隈なく論じることは、近代の哲学者たちの根本的な態度としてもたれている。つまり、無限なものを語りつくそうという理念がそこには存在していた。しかし、その態度は根本的に変えられなくてはならない。「精神の可能性とは、一点に集中しうること、一点に集中的に沈潜することであって、量的に完全でありうることではない」(P.130)のだ。また、無限の対象を最小限の概念や命題に還元することもされてはいけない(メモ。P.128でアドルノはヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては……」命題を反哲学的命題として退けるのだが、このあたりの記述を読むとヴィトゲンシュタインの態度を受け入れつつ『あえて語ろう』としていたことが明らかになるように思う)。





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