スキップしてメイン コンテンツに移動

テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第6回講義メモ)




否定弁証法講義
否定弁証法講義
posted with amazlet on 08.01.03
アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
売り上げランキング: 17030



 気が付くと講義メモシリーズも第6回。講義録として残された部分では、折り返し地点まで来てしまった。第6回の題目は「存在と無の概念」。理論と実践にまつわる諸問題からすこし距離をおき、もう少し大きな考察がおこなわれる議論について語り始めている。しかし「哲学は今なお可能か」という問題からはまったく離れていない(というか、これまでの講義とかなり内容がかぶる部分がある)。ちなみに今回の部分でサルトルはまったく関係ない。以下、いつものように講義メモ。




 哲学はなお可能かについて。これは「弁証法はなお可能か」と同じ問いとしてみなされる。反弁証法的な哲学は、もはや批判的な自己省察に持ちこたえることができないのである。


 弁証法とは「哲学と異質なもの」、「哲学にとっての他者」、あるいは「非概念的なものを哲学のなかに取り込もうとする試み」である(これはテーゼ-アンチテーゼ-ジンテーゼという図式的な弁証法とはまったく趣を異とする)。ヘーゲルにおいてのそれは非同一的なものの同一化としておこなわれる。しかし、否定弁証法がヘーゲルと異なるのはまさにこの部分である。アドルノにおいては「非概念的なものを取り込むというよりもむしろ、非概念的なものを非概念的なあり方で把握すること」(P.100)として問題設定が行われている。


 真剣に自分のことをじっくり反省することが可能な状態にある間に、人を不安にさせるような叫び(「オオカミが来た、オオカミが来た」)をあげることはイデオロギーに他ならない。しかし、このような平穏は長期的には期待できない。このような可能性のなかで、我々には「問いかける」ことについて一種の義務のようなものが課されている。「世界が変革されなかったのは、世界ががあまりに解釈されてこなかった」(P.101)からだ。


 マルクスの素朴さについて。これが「あまりに解釈されてこなかった」事例のひとつとしてあげられている。「マルクスにおいては自然支配の原理がそもそも素朴に受け入れられている」(同)――マルクスは、人間同士の支配関係は変革される、と主張した。しかし、そこでは自然に対する人間の無条件な支配はなにも変化していない。いわばここには自然支配の諸形態が、今後も純粋に存続しうることについての絶対的な信頼(信仰)である。「私は自然をロマン主義的に美化する考えに関わりあうつもりはありません」(P.101)、しかし一方で人間同士による社会的支配を批判しながら、自然支配を「無傷の形で」(同)受け入れることなどできないのだ。


 他方で、もはや我々はヘーゲルの哲学さえも救出することができない。同一化しつつ非同一的なものをものをとにかく把握しようとする試みを伴っていた弁証法という形態は、必然的に「世界はその現にある姿でそれ自体有意味である」と語ることになってしまう(『世界が精神の産物』(P.103)であるならば)。しかし、そのようなことは端的に主張できない。

 ヘーゲルにおける無規定的なものと無規定性あるいは、存在と無の同一性について。ヘーゲルは、純粋な存在、純粋な意識、純粋な空間と時間の概念とは抽象の結果として考え、無規定的なものとしてはっきりと規定されている、と主張する。そして、そうであるがゆえに、その存在は無と同一化されるのである(とてもややこしい。少し噛み砕くと、Aというものを規定するには『Aではないもの』の存在が必要である。しかし、もしAしかない世界が存在するならば、Aは『Aではないもの』との区別がつけられず、必然的に無規定的な存在となってしまい、認識ができない。ゆえにAは無となる。ヘーゲルはここでさらに、『Aが無規定的なものとして規定されている』と主張する。だから存在が可能なのであり、無と存在が同一化されるのだ、という感じ……なのか?なんかスペンサー=ブラウンもこんなこと言っているイメージがあるけど、読んだことない*1)。アドルノは、この主張のなかでヘーゲルが「無規定的なものについて語りながら、その後こっそりと、無規定的なものを『無規定性』という表現に置き換えている」(P.107)ことを指摘する。

 「無規定的なもの」。これは事象と概念は区別されていない非概念的な概念として用いられている(デリダの差延と類語として理解して良いと思う。ただし、表現として差延のように締まった感じがしない。『ヘーゲルの締まりのなさ』についてはアドルノも指摘するところである。これについては『三つのヘーゲル研究』を参照のこと)。しかし「無規定性」とは単なる概念である(痕跡である)。ゆえに、この「置き換え」は無意味なものではなく、実体の表現から概念への転換なのだ。「ヘーゲル哲学全体は元来、非概念的なもの*2をはじめから魔術的に消し去ることによってのみ、同一性に到達する」(P.108)。


 しかし、このような態度はこれまでの哲学では当然のようにとられてきたものだった。というよりも、むしろ、そのように概念を用いることでしか我々は哲学をおこなうことができなかったのである。「私たちは哲学において、概念によってまた概念について語らねばならないのです」、「哲学における重要な事柄、すなわち概念が関わる非概念的なものは、はじめから哲学から排除されることになります」(P.109)。否定弁証法とは、このアポリア的状況から抜け出ようという試みとして構想されている。




*1:っつーかスペンサー=ブラウンってまだ生きてるのか!?


*2:原文では「非概念的もの」と表記。脱字?





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...