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「につき」がわからない



 大学が経済や法律系の学部でなかったため、超アウェー感を味わいながらも税務の勉強を粛々と続ける日々であります。「源泉徴収ってなんすか?」っていうレベルからはじめた私も、過去問一回分を濃い密度で勉強を続けていたら「このまま勉強すればなんとかなるんじゃないの?」という手ごたえを感じています。最初は「総合課税」について勉強してて「天引きで税金払った上に、その上、総合課税でもう一回税金払うの!?俺ら、どんだけ税金払ってんの?!」と不安になったりしましたが。


 ところで、勉強していて気になるのは、法律関係の文章と日常で触れる日本語の違いです。噛み砕けば容易に理解できる内容なのに、なんだか見た目が難しい感じで書いてあるので上手く頭に入ってこない。慣れれば上手く普段読み慣れているような日本語へと脳内で翻訳可能なのですが、ひとつだけずっと翻訳できない言葉があります。それが「につき」という言葉。これは、こんな感じで出てくる。



不動産所得を生ずべき建物の貸付について、その貸付が事業的規模で営まれているかどうかは、社会通念で判断すべきとされている。


ただし、アパート等につき室数がおおむね10室以上の貸付であれば、また、独立家屋につき5棟以上の貸付であれば、とくに反証がない限り、事業的規模により営まれているものと判断される。



 ここでの「につき」は「アパート等に関して言えば」という風に置き換えれば良い感じに読めるでしょうか。もう少し簡潔にすると「アパート等ならば」と置換可能でしょう。


 ただ、「につき」を単純に「ならば」に置き換えれば良いというわけでもないようです(だから悩ましいのですが)。別な例を出してみます。



本問においては、贈与財産の価額4000万円から特別控除額2500万円と、住宅取得等資金の贈与の特例にかかる特別控除額1000万円を排除した金額500万円につき、20%の贈与税が課税されることになる。



 この例で「につき」を「ならば」と置換してしまうと、ますますよくわからない日本語になってしまいます。ここでは「に対して」と置き換えるのが適当でしょう。でも、「ならば」と「に対して」ではかなり距離がありますよね。両者の距離を埋める良い言い換えがあれば問題は解決するのでしょうが思い浮かばず、いつまでたっても「につき」が登場するたび、コメカミがキュッとしまって「ん?なんかわかんねーぞ、この日本語」となります。


 こういう「ん?なんかわかんねーぞ」現象は他にもあります。例えば仕事してて「AはBでもCでもない」っていう条件を書かなくちゃいけないとき。私はこういうのを「 NOT ( A = B OR A = C)」っていう感じで書くんですが、これは「A NOT = B AND A NOT = C」とも書ける(ド・モルガンの法則だっけ?知らないけど)。これはわかる。でも「AはBでもCでもない」が「AはBではない。かつ、AはCではない」という感じで書かれると途端によくわからなくなってしまう(困るのは多くの場合、私が苦手なほうの書き方で説明される、ということです)。





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