アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
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引き続き、第4回講義。この回の題目は「体系なき哲学は可能か」。それから、哲学における体系とは何かに始まり、そこから現代における哲学のアクチュアリティを問う。以下、いつものように講義メモ。この回はかなり饒舌、「アドルノ節」が全開で読んでいて楽しかった。「この要求を拒絶するような思考は、そもそもはじめから生存権をもたないと思います」(!)。
伝統的な体系の概念について。「伝統的な哲学概念によるなら、体系でない哲学ははじめから有罪を宣告されています」(P.63)。その罪は偶然性という罪である。プラトンからドイツ観念論にいたるまで、伝統的な哲学概念が目指したものとは一つの原理から「世界全体を説明すること、あるいは少なくとも、そこから全体を生み出すことができる世界の根拠について説明する」(P.64)ことだった。しかし、今日ではこの体系が体系学に取って代わられている。
体系と体系学との違い。「体系学とは、それ自体統一をもった叙述形式、したがって図式のこと」(同)。最も象徴的なものとしてここではタルコット・パーソンズによる「社会の機能構造論」があげられている。体系学においては、当該の専門領域に属すものすべてが、それにふさわしい場所を見出すことができる、とされている。しかし、このような体系学は、哲学によってなされる説明を単なる解釈へと失墜させる叙述法に過ぎない。
ニーチェの反体系的思考、ハイデガーの非体系的思考、これすらも逆説的にであるが「体系の哲学」だということができる。非体系的であるとして私に向けられた批判も、以上と同様に無効となる(これは自惚れではないと思われる。『結局のところ、私が語っていることには互いに絡み合って一つの連関をなしているものがとても多くあった』【P.70】というよりも、アドルノはつねに同じことしか語っていないようにも思う)。
しかし、現代においては体系は「もはやそれ自体として現れることはなく」、「潜在的になってい」る(P.68)。もはや、存在するすべてのものがあからさまに導き出されることもなければ、体系を産出するその本質的な概念にもたらされうこともない。これは建築術的秩序、ある真理の探究、ある根源の規定への断念である。が、その一方で「体系をいわば世俗化して、ここの洞察を結びつける潜在力にするという道」(P.68-69)を生み出している。むしろ、体系に残された道はそれしかない。ヘーゲルは「哲学はその時代を思想の形で捉えたものである」という。この言葉が告げるとおり「時代を超える真理」は断念せねばならない。
また、ヘーゲルの言葉は「なぜ、かつては体系の成立が可能であったのか」という問いにも答えている。大きな体系が成立した時代(アドルノはデカルトからヘーゲルまでを区切りとしている)とは「見通しのきく」「中身がよくわかっている世界」だったのだ(P.73)。しかし、現代はそのような時代ではない。よって「すべてを一つの統一概念のもとに収めることができるかのような」(P.74)素朴な態度、その態度に潜む「田舎臭さ」は払拭されなければならない。「事務所で、腰掛けて紙と鉛筆とえり抜きの本を手にとって、そこから世界全体を把握できるなどと思っているような態度」に潜む田舎臭さを払拭し、「思想を哲学のもとに戻してやる道を記述」しなくてはならない(P.75)。世俗化された体系である否定弁証法はこれを目指す批判である。
このとき否定弁証法は「体系のそなえていた力、かつて思考の形成物の統一性が全体として保持していた力を、個別的なものに対する批判の力、個々の現象に対する批判の力へ転換する」(P.71)。このとき、批判がもつ二重性について。まず、精神論的な意味での批判――命題や判断や全体としての構想の真偽についての批判。一方でこれは、現象に対する批判と関連する。「その概念を尺度として測られる現象は、自分はそんなものと同一ではない、と常に主張するのですが、そのことは同時にまた、この現象自体の正当性ないし非正当性についても語っている」(ややこしい言い回しだが、脱-構築的な『問い直し』として理解するとしっくりくるか?)。
次回の導入。古びてしまった「フォイエルバッハ・テーゼ」について。哲学の廃絶が失敗に終わったことから、哲学のアクチュアリティを引き出すこと。
こんにちは。講義メモのエントリ、とても面白いです。勉強になります。
返信削除>ニーチェの反体系的思考、ハイデガーの非体系的思考、これすらも逆説的にであるが「体系の哲学」だということができる。
このハイデガー批判に関しては本著の中で結構詳しく触れられているのでしょうか、それともさっと書かれているだけなのでしょうか。「アドルノのハイデガー批判」は賛否両論らしいのですが、少し気になります。
こんにちは。横から失礼します。『本来性という隠語』におけるハイデガー批判は「また<<そのつど私のものであるという性格>>――したがって、また<<本来性>>は、結局のところ、単なる自己同一性だというところに落ち着く」(p144)のあたりが白眉でしょうかね。また私見ですが、アドルノにとって、ハイデガーの哲学が、ある意味近代を「なかったことにしてしまう」可能性を秘めていることが、耐え難いものではないのかとは思っています。
返信削除>>duke377さん
返信削除コメントありがとうございます。その指摘は興味深いなと思います。比較文学者のリチャード・ローティはハイデガーが現実に起こる社会的な事件に極度に無関心だったことを指摘している。確かに彼の哲学は「同時代」や「近代」や「啓蒙主義」を飛び越して、アリストテレスの時代、さらにはヘラクレイトスやパルメニデスの時代にまで遡ってしまう。そこに何らかの問題性があるのかもしれない。
>duku377さん
返信削除コメントありがとうございます。少しハイデガーに興味が出てきました。ハイデガーってそんな可能性持ってるんですか……。むしろもっと近代の極北みたいな人だと思っていました。
『否定弁証法講義』のハイデガー批判は、彼の素朴さに力点があるように思います。
>ryotoさん
時間ができたらryotoさんが紹介されていたハイデガーの本に触れてみたいと思います。
ハイデガー批判について「さっと書いてあるだけ」だと思います(まだ全部読んでないのでこれから詳しく書かれてるのかもしれませんが)。詳しくは「講義」ではないほうの『否定弁証法』にあったと思いますが、私はハイデガーについてほとんど知らないため、ryotoさんが期待されるような批判がされているかは分かりません。よく知られているアドルノのハイデガー批判をかいつまんで紹介すると「オマエも結局は偽装した観念論じゃねーか」(これは第4回講義でも少し触れられている)というのものと、「変なジャーゴンばっかりで、オマエの哲学は神秘主義か!物神化しやがって!!」(これは『本来性という隠語』ですかね。未読です……)というものがあります。
返信削除ご教示ありがとうございます。ちょっと自分の方でも考えてみます。
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