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内在系/超越系、または信仰と論理について




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 演奏会が終わって帰ってきて、半日ぐらいずっとYoutubeで昔のテレビ映像など観ている。なかでもかなり面白かったのがこの昔の『朝まで生テレビ』の編集版映像。この回は「宗教」がテーマになっていて、オウム真理教の麻原彰晃とか栗本慎一郎(『今世紀最大の宗教はマルクス主義だ』とかつまんないことを言ってる)とかが出演していて、全部で5本の動画はなかなか見ごたえがある。抜粋されているのは主に「宗教はなぜ必要なのか」について語られている部分だろうか。


 冒頭にあげたのは4本目の動画で、ここでは池田晶子と景山民夫(どちらも故人だ)のかなりエキサイティングな議論を観ることができる。全編に渡り、池田は「どうして神の存在が必要なのか」という疑問を周囲の宗教家・信者に向ける。ものすごく素朴な態度をもって。


 「自分の存在であるとか、宇宙の存在であるとか、そういった規定をしようとする。それは全て自分の頭のなかでおこなわれる。そしてそれらの規定しようとする問題は『根源的に規定が不可能』、解決不能な問題である。神はそういった根源的未規定性に対して、外部からあたかも『私の存在』といったもの規定してくれるような処方箋のようなものでしかない。


 しかし、『神』を規定するのも自分である。だから、神の存在を自分の外部へと設定し、それによって私/宇宙を規定することはできない。神は問題の根本的な解決を図る特効薬ではない。なぜなら神もまた自分の内部に存在するからだ。


 神は徹底して私の内部に規定される。そこでの神は絶対的なものでは決して無く、実はとても揺らぎやすいものだ。あくまで『外部で私を規定している存在』として私の内部へと神を置かなければならない。というか、現にそのようにおかれている。


 だとしたら、神は何も特別視される必要性はない。むしろ、神の存在はいらない。私がいればそれで良い。『私がなぜ存在するのか』。これは解決できない。しかし、それを考える私が存在している。それで良いのではないか?むしろ、どうしてそのようにできないのか?」


 池田の発言を主旨をまとめてみるとこんな感じになるだろう。このような態度は宮台真司的な語彙でいえば「内在系」という分類できる。根源的未規定性に対して、外部的なものからの規定を求めなくても済ませる。


 しかし一方で「幸福の科学」の熱烈な信者であった景山はそうではない。「私は神によって規定されている」――そう信じて疑わない(先ほどと同様な分類をするなら、これは『超越系』の態度だ)。だから「本当は私しか存在していない」という池田の発言をまったく理解できない。


 「私の存在について問い続ける。答えはでない。でも、問い続けることによってどこかで神へとたどりつくのだ」という風に景山は言う。これに対して池田は「どこまでいっても、それ(たどりついた神)は自分ではないでしょうか?」と答える。このときに池田の言葉を理解できなかった景山が「え?」と池田に問い返す表情がとても印象的だ。


 このやりとりを観ていて、強く感じたのは「信仰とは論理を超越したものなのだな」ということだった。極めて論理的に神の存在を切り崩していく池田の言葉は、私にはとても正しいもののように思われる。しかし、信仰を持つもの、景山に対してその論理的な試みは完全に無意味なものとなってしまう。景山には池田の言葉が理解できない。おそらくそれは哲学的/論理的な思考能力の問題ではないだろう――この論理の無化はまさしく、「信仰が論理を超越した行為である性質をもっていることの表れ」であるように思われるのだ。


 また、それは他者に対する根源的未規定性であるとも言えるかもしれない。池田と景山の議論が続いたとしても「なぜ、あなたは絶対的ではない存在である神を信仰するのか」という問いに対して「だって、神は絶対的なんだもん」という答えしか帰ってこないだろう。池田は他者である景山を規定することはできない。景山の世界では、すでに「神は存在していて、私はそれによって規定されている」という公式が既にできあがっている。まさにそれが理由となって「神は存在しない」という切り崩しは不可能なものとなる。



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コメント

  1. 今回は,少し意見があります.神がいるのかどうか,というのはいろんな形で変奏されるのです.中世だと,神が自らの意志によって世界を創造したのか,それとも創造する前に何かしらの必然的な秩序が既に想定されていて,それに基づいて世界を創造したのか,という神学的な問いがありました.神が自らの自由意志によって世界を創造したのだ,と考えるのが「主意主義」,神は既に存在する必然的な秩序に基づいて世界を創造したと考えるのが「主知主義」と呼ばれます.十三世紀末に,アラビアから流入したアリストテレス的な「主知主義」は断罪されて,神の自由意志の絶対性を主張する「主意主義」が正統だと認められました.近代になると,デカルトは「我考える,ゆえに我あり」というところから始めるし,知性に対する意志の絶対性と優位を認めるので「主意主義」,それに対してスピノザは,そのような主体の意志など存在せず,あるのは神と,その神が限定されて現れた秩序だけだと考えたので「主知主義」と一般的に区分されます.ポストモダニズムは,基本的にデカルト批判から始まったので,「構造主義」という,主体に先立って世界の「秩序=構造」があるのだという主知主義的な傾向が強まりました.ポストモダニストが,何かというとスピノザを引用するのは,そのためだと考えられます.神というと,何か単なる超越神のようなものだけ想定してしまいますが,それを世界の普遍的な理法のようなものだと考えれば,では個人の意志が存在しなければ,そのような秩序はそもそも存在しないの?ということになるでしょう.これだけでも池田氏のように,ただ個人がいれば十分という見解には疑問符がつくはずです.蛇足でいうと,このような普遍的な世界の理法(たとえば,数学)が,なぜ普遍的ではない個人によって見出されるのか,ちっぽけな主体に現れるのか?,という問いを突き詰めたのが「現象学」の当初の目的だったはずです.

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  2. コメントありがとうございます。ものすごく勉強になりました。「どちらが正しいか」ではなく、両者のコミュニケーションのできなさ(景山の『え?』に象徴されるような)が面白い、というエントリだったのですが、少し池田側に寄りかかった書き方が過ぎたかもしれません。第三者の視点、つまり私からすれば、どちらの言い分も理解できる。でも、両者の間ではうまくコミュニケーションができない。たぶん池田は「なぜ、信仰心を持つ必要があるの?(私には神なんかいらないよ。アナタも私のように考えればもしかしたら信仰なんかいらないんじゃない?)」という具合にものすごく素朴に問いかけている。一方で景山も素朴に信仰を抱く。ここまではっきりと(悪意がまったくない形で)噛み合わない状況を面白く思ったのですね。

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  3. 付け足すと,「信仰とは論理を超越したものなのだな」というより,主知主義的に考えれば,
    「(普遍的な世界)論理は主体を超越したものなのだな」となるわけです.宮台氏が「超越系」と呼ぶのは,個人の認識の領域(=「社会」)を超えた「世界」の理法の顕現ことだと思うので,やはり彼も主知主義者だと思いますが.ギリシア悲劇で,なぜあれほど「母親が自分の息子を知らない」で,夫婦になったり(『オイディプス』),殺したり(『バッコスの信女』)ということが起こるのかというと,人間の了解できるコミュニケーションの総体である「社会」に先立って,「世界」の理法が存在するからだ,ということになるでしょう.

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  4. 再度コメントありがとうございました。大変申し訳ないのですが、ちょっと後半の部分の文意が読み取れません(ギリシア悲劇についての教養がまったくないせいだと思いますが……)。前半部分について。
    しかし「『世界』の理法の顕現に対して、さらにそれを超越した理法を求める」という態度もあるわけです(池田はそれを『悪循環』と呼んでいます)。構造主義をちゃんと読んだことがないので自信はありませんが「構造が絶対的なものとして存在する」という主張ではなく、「主体に先立つものを、とりあえず構造と呼んでおくよ」という分析のためのメタファー、というか便宜的な呼称だったのではないでしょうか。ですから、私は「信仰」とは分けておきたく思います。何らかの新的な存在を信仰する人たちが皆、本当に神へと忘我していくわけではないとは思いますが、信者の態度が「主体を超越したところに神がおり、それは(悪循環の)終着点なのだ」というベタなものなのに対して、「とりあえず、構造と名づけておこう」というネタ的なものがあるように考えています。

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  5. 説明が下手で申し訳ないです….「母親が自分の息子だと気づかずに…」というシーンが,ギリシア悲劇には登場するわけです.あるいは,さらに『オイディプス』だと「息子である自分が父親を殺したとは知らないで…」というのも入りますが.そういうものというのは,いったい何を示すのか,というと結局,繰り返しになりますが,宮台さん風にいうと,人間のコミュニケーションの総体を「社会」と定義した上で,その「社会」には還元されない「世界」の理法が,人間には不条理なものとして現れる,と語るしかないだろうということです.彼は,「社会」には還元されない「世界」の理法を映画とかは描くべきだ,という主張を最近まで展開していたわけですが.

    >「主体に先立つものを、とりあえず構造と呼んでおくよ」という分析のためのメタファー、というか便宜的な呼称だったのではないでしょうか。

    おそらく,「普遍」とか,そういうものに対する意識が西欧と日本では違うので,日本だと単なる「ネタ」というか,便宜的なものにしか聞こえないのかもしれません.単なるメタファーであるというのは,おそらく間違いだと思います.構造主義や主知主義が,個人の認識を超えた次元を先取りして議論しているという意味で,ある種の信仰としか呼べないとも考えられますが,別にそれは私には問題ではないと思います.

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  6. 説明が下手なのでなく、私に理解力(あるいはセンス)が欠けているだけでしょう……。再度ご説明していただいてもイマイチ、ピンと来ません。

    「社会」的に理解不能なものが現れたとき、それを人間は「世界」の表出としてしか理解することができない。しかし「『世界』の表出として理解」した瞬間に、理解不能だったものは社会的に理解可能なものになってしまう。理解不能なものを理解不能なものとして語ろうとしたのが、デリダとかなのだ――と整理しても大丈夫ですか?

    >ある種の信仰としか呼べないとも考えられますが,別にそれは私には問題ではないと思います

    この点については同意いたします。あとネタ/ベタの受け入れ方については、私がそういう本を読みすぎているせいがあるかもしれません。全てがベタに受け入れられないような状況がある気もしますけれど。

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  7. 論理学と現象学にかんして生半可な知識しかないので,ボキャブラリーが違うかもしれませんが,
    最初に言えることは,認識の誤謬というものは,遡及的に認識されるものでしかないだろう,ということです.「あれは獣だと思ったけれど,実は息子だった」というのは,時間的な経過や観点の変更で可能となるものなので.もちろん,「息子だと思ったけれど,本当の本当は隣の家の旦那だった」という可能性もあるので,誤謬に誤謬を重ねるようなことは無限に続く可能性があります.ただ,それが本当の何者かはわからないにしても,そもそも存在しているか否かも怪しいとしても,「息子だ」とか「旦那だ」と「思われていること」それ自体は「真」なので,その「思われ」の次元からまず考えましょうよ,というのが現象学の立場だったと(教科書的に)思います.すると,デリダは「あれは獣でも,息子でもありえる」という話になって,決定不可能性に直面したわけです.主観の「思われ」の次元から始めると,それこそ何でもありになってしまうので,「普遍的なもの」というのは,何も考察を深められないまま放置プレーになるのですよね.そのような「普遍」とか主観に先立つ「構造」なんてものを考えるのは(それは,結局「一神教」って結局何なのというところに回帰するのですが・・・),単なる神経症の類と見なすことも可能ですが,そうすると西欧人は二千年の間神経症だった,ということになるわけで・・・.まあ,それでも良いのですが.

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