G.W.F.ヘーゲル『歴史哲学講義』(下)

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歴史哲学講義〈下〉 (岩波文庫)
G.W.F. ヘーゲル
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 中国・インド・ペルシャの歴史を中心として語られた上巻*1と比べて、ギリシャから始まる西洋の歴史を語った下巻はヘーゲルの本領発揮、という感じでより面白く読めた。



ギリシャにやってくると、ただちに故郷にいるような気分になる。そこに精神の土台がしっかりとあるからです。(中略)ギリシャに見られるのは、青年期の精神生活の新鮮にして明朗な情景です。ギリシャにいたってはじめて、精神はみずからを意思と知の内容とするまでに成熟し、しかも、国家、家族、法、宗教が同時に個人の目的となり、個人はそれらにかかわることで個人としてみとめられる、という関係が成立しています。



 冒頭から、ヘーゲルはこのようにしてギリシャ世界への憧憬をあらわしていた。彼のギリシャ国家への評価はすこぶる高く、ことあるごとにギリシャの精神を褒め称え、素晴らしい、と評する。このあたりは、もうほとんど「昔は良かった」論として読めてしまうのだが、このギリシャ世界論にはとても興味深い。


 ヘーゲルはギリシャの共同体精神を「思考が自分を反省するという無限の形式を欠」いたものだと分析する。ギリシャにおける個人の意識は、国家や法、宗教に縛られていない。それらは主体の「個人の目的」とされており、外部にあって主体を規定するものとしてではなく、むしろ主体の精神の中に内包されているものとして現れている。


 だから、主体は「反省」という行為を経由しなくても、存在が許されてしまう――主体は、国家や法や宗教を参照して、自らの正統性/妥当性を確認する必要がない。いわば「国家=私」、「法=私」、「宗教=私」という統一が生まれており、私の存在ははじめから承認されたものになっている。「個」は即ち「全体」であり、「全体」は即ち「個」なのである。


 しかし、この個と全体の統一は、国家の規模が大きくなるにつれて、保持することができなくなってしまう、とヘーゲルは言う――統一は、ギリシャの都市国家のようにとても小さなコミュニティでしか存続することができないのである。徐々に、国家や法や宗教は、主体の内部から外部へと切り離され、次第に個人の上に立って「個人に徹底した従属を強いるもの」になりはじめる。


 この変化は、ギリシャの没落にはじまり、ローマにおいて完成される。国家や法や宗教が、主体の外部におかれ、「従属を強いるもの」となったとき、初めて主体には反省が生まれる。ヘーゲルはこれを「世界史の新しい局面」だと言う。



啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫 青 692-1)
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 これらのダイナミックな記述は、ホルクハイマー/アドルノによる『啓蒙の弁証法』と重ねて読むことができるように思える。主体の内部にあった主観的理性が、合理的理性となって外部へと切り離され、その外部にあるものを利用することによって、近代は爆発的な進歩を生み出すことに成功した、とホルクハイマーとアドルノは分析する(しかし、それは同時に野蛮な時代の幕開けでもあった)。ヘーゲルの分析も、これと似ている――ギリシャ的な共同精神が喪失されることによって、弁証法的な歴史の動きは推進されたのである。






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